葬儀でした。
50歳から剣道を始め、72歳までに六段を取った方でした。
とにかく剣道に情熱を傾け、少年少女剣士の育成に、生きがいを持たれた方でした。
僕は、もし癌になったとしても、あの単体治療だけは、絶対にしません。
しかし、この国の癌患者の99%は、あの単体治療を勧められます。
興味深い話があります。
医者に、
「もし、あなたが癌になった時には、どういう治療を選びますか?」
例えば、100人の医者に、その質問をぶつけると、90人以上の医者が、「あの単体治療はやらない」と、答えます。
即答です。
しかし、癌患者は藁をもすがる思いで、宝くじ当選くらいの確率しかない、あの単体治療を選びます。
今日、僕が葬儀に参列したその方も、あの単体治療を選んでしまいました。
僕の母は、2年前の3月に「余命3ヶ月」と、診断されましたが、僕はその場で、あの単体治療を拒否しました。その後、2年間、生き続けてくれました。
以前より、知っていた癌の治療薬を、僕は韓国から取り寄せ、母に飲ませつづけたのです。韓国では、治療薬として認可されており、処方箋があれば手に入れることができます。
この国に癌の治療薬はありません。
認められていないのです。
「癌に効く薬だ」と、紹介した瞬間に、犯罪となってしまいます。
なので、その薬をここでお伝えすることができません。
しかし、それはサプリという位置付けで入手することができます。
そのサプリの名前を、お伝えできないのが、本当に苦しい。
人の免疫力を飛躍的に高めるものなのです。
寄生虫は、ある生物に寄生して命をつなぎます。
寄生された生物は、命を落とします。
しかし、きのこはそうではありません。
きのこには木に寄生しながら、木と生命共存する種類のものがあります。
「癌を排除するのではなく、身体の中で共存させるということができないものだろうか?」
とある医療グループは、そこに着眼しました。
2000年頃のことです。
もう、すでにそのきのこは、そういう謳い文句で密かに広がっていますが、一般的には、まだ、認知度が低い。
癌細胞を移植した実験用マウスを用いた動物実験によって、そのきのこ多糖体の癌予防効果が明らかになっています。
ここでは、あくまで「癌予防効果」としか、書けません。
一般的に、全てのきのこは免疫力を高めると言われていますが、その研究グループが発見したきのこは特別です。
単体治療薬アドリアマイシンと、そのきのこを併用すると、アドリアマイシンの副作用(脱毛、体重減少、嘔吐)が現れず、癌細胞が減り、生命が著しく延長されることが分かっています。
先ほども書きましたが、
飛躍的に免疫力を高めるきのこです。
僕の、書いた文章は、僕の知識だけのものではありません。
癌で苦しんでおられる方、家族の方々に、検索をしてもらえないものだろうかという思いで、綴りました。
文章の箇所箇所を拾ってみてください。
もう、今や、癌は遺伝体質のものではありません。
誰もがなってしまいます。
残念なことに、そのきのこをしても、末期となれば効果がないようです。
葬儀中、そのことばかりを考えていました。
この国では、癌を治す薬が存在してはならないのです。
やるせない思いです。
僕たちの自由は、囲いの中の自由です。
お⤴️っはよーございます。
PV「と、いう話さ」
みなさんに気に入ってもらってよかったです。
次のPVのことで、ちょっとバタバタしておりましたので、状況を把握しておりませんでした。
昨晩、友人から「LINE News」で、絶賛されているとの連絡が入りました。
素直に、嬉しいですね。
二日間で、すでに20万回を超える再生回数。
これは、現在174万回再生の「FUKUOKA」と、同じような勢いですね。
Youtubeのコメントも読ませていただきました。
僕の音楽を知らない若い世代が、たくさん聴いてくれています。
これは、予想外のアクションでした。
次のPV公開は、5月下旬を考えておりましたが、
思うところがありまして、数日後、5月の頭にシフトチェンジしました。
今、本当に身軽です。
ありがとう。
と、いう話さ
僕は、25年以上前に「この先音楽業界は冷えて行く」と、ステージで語りました。
何が、そう思わせたのか。
「楽曲自体がビジネス的な価値を失って行く」と、捉えたんですね。
それは、音楽業界の体質が、世間に迎合して行っていると感じたからです。
「世間に振り向いてもらわなくてはならない」
「世間が、もっと喜ぶサービスをしなくてはならない」
世間に、歩み寄り過ぎたのです。
「世間が喜ぶこと」
とどのつまりは、音楽を無料にすることに近づいってしまったのです。
音楽業界は、世間の表情ばかりを伺い、自分たちが、どこを歩いているかわからなくなってしまったんですね。
そのしわ寄せは、アーティストに来てしまいました。
今、アーティストで、楽な生活をしているのは・・・、これは表現が違いますね。
今、アーティストで、音楽のことだけを考えて過ごせているのは、ほんの一握りの人たちだけです。
音楽をやりたい人たちは、たくさん居る。
しかし、音楽では食えない・・・。
音楽業界は「権利ビジネス」という名に侵され、本来、楽曲を製作したアーティストに還元されるべきものまで、他が侵食してます。
今、本来の形に戻さねば、やがてアーティスト(ミュージシャン)は居なくなるでしょう。
そのうち、企業の宣伝広告のツールとなっていくのではないでしょうか。
「年俸◯◯円で、ウチ(会社)の企業イメージとして活動してください。著作権は、会社が頂きます。」
世の流れに乗ることと、大流に飲み込まれるのでは、意味が違います。
音楽で食べていくことを望むならば、アーティストが革新を抱くのは「今」しか、ありません。
アーティストは、誰も「個人商店」を持つ時代に入っています。
これに関して、ここで深く語るのは色々危険が伴いますので、これを読んでいるアーティストは、この「個人商店」という言葉に、気づきを持って欲しいなと。
今回、アルバムをリリースする上で、僕は先行シングルを出しませんでした。
「これらの曲が入っているアルバム」
ではなく、
「このアルバムには、これらの曲が入っている」
という、一見同じようで、違う概念の行動です。
僕は、リリースしたアルバムを長く意識してもらえるよう、今回、アルバムから、
次々に楽曲を紹介しようと考えています。
と、いう話さ。
密談。
今日は、夕方から3人の弁護士と最終に近い打ち合わせをいたします。
僕は、悪いことをしてしまいました。
これには、自分擁護、弁解はありません。
それに関して、様々なことが世の中に流れました。
メディアのみなさんも、ある程度の取材をした上で、情報公開をしたのでしょうが、
物事の考察、そして側面には「良く受け止めよう」「悪く受け止めよう」、このふたつがあります。
そして、記事にはもうひとつ、「広がって欲しい」という、願望があります。
更に言うと、「広げてしまえ」という、愉快犯のような表情を持った心理が加わったものがあります。
今、僕は四つの案件を抱えています。
すでに、時間が経ってしまっているので、「もう、どうでもよいではないか」と、思われている方も、いらっしゃるでしょう。
僕は、生まれつきの性格なのか、一晩寝ると、二晩寝ると、
嫌なことは薄れていきます。
なので、他人に攻撃心を抱き続けることが上手ではありません。
よく母から言われました。
「あんなことがあったのに、なんでオマエは、また普通に仲良くできるのか?」
そうなんですよね。
しかし、それは生まれ持ったものなので、変わりません。
答えようがないのです。
そんな僕ですが、昨年末の出来事からは、「目をつぶらない」「つぶってはならない」
ものがあるのです。
以前、このブログで、
「法的措置を施す」
と、いうようなことを、お伝えしました。
そして、あれから随分時間が経ってしまいました。
しかし、この長い時間には理由があります。
四つの案件では、例え、どこをどう突かれても、どう切り抜けようとされても、
「そうはさせない」ための用意を充分にしなくてはなりませんでした。
すべて、勝たなくてはならないのです。
今日、最終的に、それが整うとういうことです。
せっかく、沈静化していることを、また表面化させることになりますが、
この四つの案件に関しては、僕個人だけの問題ではありません。
僕が黙っていると、また同じようなことが繰り返されるでしょう。
僕個人の問題ではないのです。
コンビニからの帰り道。
今日は、12時半まで寝てしまい、1時からの打ち合わせにバタバタと用意。
そして、打ち合わせが終わると、また、ベッドに潜り込み、5時まで寝てました。
今日は、打ち合わせ以外はお休み。
さて、コンビニから戻ると、頭も起きてきましたので、
歌詞でも書こうかなと。
ゆったりとした一日です。
今、メンバーが帰りました。
イイ感じですね。
今月に入って、5曲できました。
4月の中旬に、みなさんにお見せできると、お伝えした作品は、
諸事情から、下旬の半ば辺りになりそうです。
毎日が音楽です。
充実しています。
今日は、久しぶりに、そろそろ寝ることにします。
では、おやすもう。。。
さて、そろそろ外出します。
壊された3台目のパソコンを、まず修復して、それを車に積んでからの仕事です。
僕は、さる機関のメルマガを受け取っていました。
そのメルマガは、不定期ですが、月に3度ほど配信されていたのです。
僕が、なぜ、そのメルマガの会員になったのか。
やはり、長いこと追いかけているうちに、そこにたどり着いたのです。
国が支援する、国際的な機関です。
配信されたメルマガは、いつも誤字脱字だらけでした。
それほどの機関でもありますし、当然チェックされた上で配信されているはずです。
僕が、時々やらかしてしまう、その頻度とは比べ物になりません。
不可解に思った僕は、ある日、それを「ぎなた読み」してみたのです。
見事に通じました。
もう、みなさんに本でお伝えしましたとおり、僕は2010年夏から悪いことをやっていました。
それに関することが送られてくるのです。
ある日、決定的なメルマガが送られて来ました。
それには、冒頭にこのようなことが書いてありました。
「ぎなた読み」ではありませんでした。
「こんにちは。昔のあなたに戻ってください。あの何も知らず、ひとりの若者として、夢を抱き、上京したときのことを。今なら、まだ間に合います。我々は、いつもあなたを観ています。心から応援しています。」
上のような書き出しは、極めて変です。
そして、その記述の後は、いつものメルマガになりました。
何百なのか、何千のメルマガ配信なのかは、僕の知るところではありませんが、それまでの、あまりの誤字脱字に多さと「ぎなた読み」から、僕は、すべてのメールを、パソコンに転送していました。
確信がありましたので。
しかし、現在、その転送したメールは、数個を覗いて、すべて削除されています。
先日も、appleに、なんとか回復できないものだろうかと、お願いしてみたのですが、サーバから削除されてしまったメールは一切、回復ができないと。
「そんなケースは見たことがありません。上層部に報告をしてみます。」
良い風に受け取れば、僕を更正させようとしてくれたのですね。
ただ、すべてを見られているという状況は、僕のストレスとなってしまいました。
僕が、その機関を特定してから、その機関は正式コメントを出しました。
「一連のことから、我々は手を引くことになりました。」
と。
また、その機関のサイトでは、動画がアップされていました。
「我々は、良いことをやっているのに、なぜ、我々がドキドキしなくてはならないのでしょうか?」
世界に誇る機関でもありますし、僕はその機関に牙をむけるつもりはありません。
今は、その機関にアクセスできるスキルを持った連中の、迫害を受けているのが現状です。
その動画は、僕のCD-Rの中に納められています。
数人には確認させましたが、僕はその機関に夢を託していますので、それを世間に公開することはしないでしょう。
誰に見られていても、堂々としていればいい。
これしかないのだと思っています。
1時から取材、撮影です。
これは、雑誌など、早急に皆さんの目に触れるものではありません。
無事、公開できればイイなと思っています。
最近、よく言われます。
「あれって、そうだよね?」
「そう、聴こえる?」
「何度も、繰り返し、聴いちゃったよ。」
「Too many people」
の中の、ある楽曲ですが、歌詞カードとは違うことを歌っています。
当初、そう歌うことは、物議を醸すのではないかと、ずいぶん迷ったのですが、
応援し合おうと言う意識が、強く芽生えましたので、
それを、マスメディアがどう扱おうとも、臆することはないとの気持ちで向かいました。
ライブでは、もっとハッキリ歌うつもです。
お互い、負けるな。
お互い、頑張ろう。
スナック。
ドアの上には、丸い電球がアーチのように飾り付けしてありました。
初めて、ドアを開けたときには、ドラマのセットの中に居るようでした。
親戚が、時々通っているという店でした。
その店のお姉ちゃんですか?
はい。ど真ん中でした。
同じ年でしたが、大人びていて、目の大きな和風美人でした。
すぐに仲良くなり、大学生になっても、バイトの帰りに、時々、その店に顔を出していました。
僕は、お酒が飲めませんでしたが、今から考えると、あれお酒ですね。
「バイオレットフィズ」
それを1杯。そして、お茶漬け。
店のママさんも良くしてくれましたね。しかし、ママさんは、赤ちゃんが生まれたばかりでしたので、ある時期からは、お店に顔を出さなくなりました。
何にでも、マイブームというものがあります。
いつしか、その店にも行かなくなりました。
僕の家の近くには「御笠川」と、いう川がありまして、小学生のころは、時間がある限り、その川で、魚釣りをしていました。
いつも犬と一緒でした。「ニック」という名の大型犬です。
その川の釣り場は、土手から、更に1.5メートルほど、降りなくてはならないのです。
僕は、身体が軽かったですから、難なくひょいと。
ニックは、僕の後を、いつも追いかけていましたので、土手から一緒に飛び降りるわけです。
ひたすら遊んだ後、大型犬のニックを土手に上げるのが、とにかく大変でしたが、兄弟のように育ちましたので、あまり苦にはなりませんでした。
そんな想いでの川。
土地開発で、今では、もうあの景色はなく、まったく別の川のようです。
デビュー後も、実家に帰ると、必ず「御笠川」に行ってました。
すっかりコンクリートナイズされてしまっていたのですが、風の気持ちよさは、子供の頃とかわりません。
デビュー10年目ぐらいのときかな。
その日も、川を見に行きました。
珍しく、小学生が川で遊んでいました。すぐに、自分と重ねてしまったのですね。
子供たちに声をかけ、友達になりました。
川べりに腰を下し、この川が、昔はどうだったかなんて話をしていました。
ふいに質問をされたんです。
「兄ちゃん、言葉が違うやん。どこに住んどうと?」
「オレか、今は東京。」
「仕事は、何しようと?」
「仕事か。歌をちょっとな。」
「えっ?歌手ばしようと?」
「そんな感じかな。」
「そんなら、中森明菜知っとう?」
「おう。会ったことあるぞ。」
それからは、質問攻めでした。1時間近く話をしましたかね。
「お前たち、明日は時間あるか?」
「なんで?」
「オレの、コンサート観に来ない?」
「うそっ!? 行きたい!! でも、お母さんが、ダメって言うやろうな。」
実は、前日に、友人のふたりがライブに来れなくなり、チケットがあったのです。
「お兄ちゃん。お母さんに、電話してくれん?」:
「いや、それはお前たちの仕事だろ。説得してこいよ。」
「何て、言おうか?」
「分かった。じゃあな。川で遊んでたら、歌手のアスカという人と友達になって、コンサートに招待されたって、言ってみな。」
「お母さん、知っとうかいな?」
「だぶん、知ってると思うぞ。」:
場所、時間。そして、バックステージにとおすための流れを伝え、子供たちに、走り書きを渡しました。その紙には、
「こんにちは。飛鳥です。このふたりの友達を、楽屋までアテンドしてください。」
イベンターに渡す走り書きでした。
「これを、関係者入り口にいるお姉さんに渡すんだぞ。」
ライブ、終了後に楽屋で会ったふたりは、昨日とは違っていました。
「どうだった?楽しかったか?」
「はい。スゴかったです。」
「オマエ、何、丁寧な言葉を使ってんだよ。」
子供たちは、お母さんから預かった手紙を持っていました。内容は、秘密です。
それからも、実家に帰る度に、川へ行っていましたが、もうあの子供たちと会うことはありませんでした。
それから、6、7年後のことでしょうか。
駅前の通りを歩いていたら、昔、通っていたスナックが目につきました。
スナックのドアには黒い飾りがあったのです。ママさんは、離婚をしていましたので、
きっとママに何かがあったのだと思い、突然でしたが、玄関のチャイムを鳴らしたのです。
悲しみの真っ最中でした。不幸は、やはりママでした。
対応してくれた方は、僕の顔を見て驚いています。
「昔、よくお店にお邪魔してたんです。」
「えっ!?そうなんですか? でも、ママの子供さんから、ASKAさんと知り合いだって聞いてました。」
「子供さん?」
リビングの奥から、ニキビ面の青年が顔を出したのです。
「お久しぶりです。」
「おー!? オマエ、何? ママさんの子供だったの?」
あの時、川で知り合った子供が、すっかり青年になっていました。
突然でしたので、普段着のまま家に飛び込み、お線香を上げさせてもらいました。
ママは、最後まで、僕がお店のお客さんだったことを知らずに逝きました。
自分の子供と友達になった飛鳥と僕は、別物として受け取っていたようです。
デビューしたことや、東京で活動していることの報告をしていればよかったなと。
バイオレットフィズを飲みながら、いろんな話をすることができていたでしょうね。
ママさんは、あの時、あの手紙に、
「はじめまして。」
と、書いていました。
お互いが、お互いに気づいてなかった時にもらった手紙です。
競艇。
こう書くと、前のパチンコと連動しますので、やたら遊んでたというイメージがついてしまいますが「行ったことがある」と、いうことです。
そこは「福岡競艇」でした。
人がぎゅうぎゅう詰めでした。
前のパチンコで登場した親戚と行きました。
もちろん、ボート乗りの名前もなにも知りません。
その人波の中で、一段高いところに立った人が、大声を上げています。
予想屋です。
その道のプロです。
その彼の予想した、番号を買うのです。
親戚は、予想屋から1 枚の紙を手渡されました。
黄色の10センチ四方の紙に、番号が、殴り書きされていました。
僕のポケットには1000円札一枚。
同じものを買っても、ふたりで外れてはしようがないとの作戦を立て、僕は違う番号を買うことになったのですが、何も知らない僕は、何番を買っていいのか分からないのです。
そのとき、隣に、老人がいました。
耳に鉛筆を挟んで、紙を握りしめていました。
「10レース」
そうです。今、買おうとしているのは、最終レースの10レースです。
その老人の紙を覗き込みましたら、赤字で「1-6」と、書いてあったのです。
僕は、200円を2枚。「1-6」に賭けました。
コンサートのオープニングフィルムで、競馬場のシーンがありました。
僕には、あのような場所は、その競艇のとき以来でしたので、
「競艇」と「競馬」では、種類は違えど、実は、あのときのことを思い出していたのです。
ああいう賭けごとにおいての迫力はすごいものですね。
スタートの合図で、一斉に飛び出したボートへの声援は、怒濤のようなものでした。
馴れていませんので、目を凝らしても、何番が先頭なのかがわからないのです。
あっと言う間に、ゴール。
楽しんだという感覚はなかったですね。
ただ、参加したという感じでした。
そして、電光掲示板。
そこには、
「1-6」
が、映し出されました。
ビギナーズラックです。
12000円。
僕は、よくよく思えば、この人生、
「16」「36」「52」「56」
に縁があります。
そう言えば、僕の良く知る人物の誕生日が「1-6」ですね。
こういうのって、あるんでしょうね。
閉店。
高校3年生のときだったな。
親戚に、同じ歳で、もう仕事をしていた奴がいましてね。
そいつに連れられて、行ったもんです。
パチンコ、競艇、スナック。
パチンコは、当時も今も、18歳以下は来店禁止なのですが、そこはまだ、昔。
ぜんぜん、厳しくなかったですね。
学生服で行ってましたから。
パチンコと言えば、あの日のことを思い出します。
あれは、間違いなく、僕対策でした。
当時、お金もないですし、300円負けたら、すごすごと家に帰って行きました。
12月24日でした。クリスマスだったので、良く覚えています。
その日も、そいつと、パチンコ屋に寄ったんです。
夜、8時半頃に入店しました。
僕は、どうせ負けるんだと思い、台を選ばなかったわけです。
そいつは入念に台を選びましたので、僕は、その隣に座ったのです。
玉は、どんどん減り、最後の1個になりました。
その1個が、チューリップに飛び込んだわけです。
バラバラと落ちてくるパチンコ玉。1個入ったところで、心細い量しか出て来ませんのでね。不確かなことは言えませんが、1個入ると、15個流れてくるんじゃなかったかな。
もう、ダメだと思うと、1個入るんです。
それを繰り返していた時に、連続で入り、上の皿がいっぱいになりました。
そこからでしたね。
どんどん入るわけです。チューリップは開きっぱなし。
この台は壊れてるんじゃないかと思ってしまうくらいなのです。内心、怖くなりましたね。
店員さんが、長方形のブルーの空箱を持って来てくれて、その箱が、3つ、4つと増えて行きました。
僕の街では、あまり入らないパチンコ店で有名でした。
お客さんも少なかった。なので、高校生でも、目を瞑っていたのでしょう。
その店は、打ち止め終了がなかったのです。
箱はどんどん増え、何度も店員が覗きに来ます。
他のお客さんも、僕の後ろに並んで、僕のフィバーぶりを観ています。
足下に置いた箱は、いつの間にか、10箱近くになりました。
交換時は、1箱が約2500円でしたから、すでに25000円です。高校生に25000円は、大金の域を超えています。親戚の奴は、僕の箱から玉をくすねていましたが、そんなことは、気にならないのです。
箱が5つくらいになったとき、父に電話をしたのを覚えています。
父は、電話口で笑ってましたね。
その店の、閉店は10時でしたから、後、30分はやれるのです。
ところがです。
ところがでした。
店内にアナウンスが流れたのです。
「本日のご来店、誠にありがとうございます。本日は9時半で、営業を終了させて頂きます。また、明日のご来場を、お待ちしています。本日は、誠にありがとうございました。」
そのアナウンスを聞きながら、思いましたね。
「オレだ・・・。出しすぎたからだ。」
と。
終了時には、3万円近くになっていました。
今では、僕はパチンコはやりませんが、僕のハイスコアは、あの日でした。
高校生です。3万円も入ったんです。少々、減っても構わないという思いから、
翌日も、その店に行ったのです。同じ台を目指しました。
良く出る台は、数日間、そのままだということを知っていましたので。
少々、釘をいじっても、出るものなのです。
その台に、向かいました。人は、座っていません。
「ラッキー!!!」
ところがです。
ところがです。
台には、張り紙がしてありました。
「故障中」
やっぱり、そういう台だったのですね。
昨日の閉店が早まったのは、僕対策で間違いないでしょう。
パチンコ屋を、早めに閉店させた男。
今、歌を歌っています。