本日の夢、第2部

飲み屋での「武勇伝」でした。

それはそれは、周りから感謝されたのです。

 

どんな武勇伝かって?

 

まぁ武勇伝です。

吉田豪氏になら話していいかもです。

 

 

で、本日の第1部

 

「インド編」

 

これ、だって、ほら・・・。

変でしょ?

 

朝方5時頃に「インドの農民に手を振った」って・・・。

時差、3〜4時間でしょ?

インド、真夜中・・・。

 

はい。

皆さん、負けぇ!!!!

 

 

ASKA

 

 

やばいよ、やばいよ!

先ほど、久しぶりの歌番組に出演しました。

海外からの生中継だったんです。

 

突然でしたので、皆さんにお伝えできませんでした。

場所は「インド」からでした。

 

出演はC&Aで。

曲目は「黄昏を待たずに」

 

そして、ソロで「Too many people」の2曲。

 

まずは、「黄昏を待たずに」を歌い終わりました。

3時間スペシャル番組でした。

 

番組のトップバッターをC&Aが飾りました。

生番組で歌詞間違いを、お約束のようにやってしまいまして、

 

「ダメだ、こりゃ!」

 

でした。

 

で、ソロは、トリを飾ることになっていましたので、2時間以上、待つことになったわけです。

 

土道という懐かしい景色でしたので、次の出番まで、少し歩いてみようかと。

 

大きな広い通りを渡り、路地裏を歩いてみました。

すぐに農園地帯になりましたので、日陰で涼んでる農民の方々に手を振ったりしながら歩きました。

 

中継地は、その広い道路沿いにありましたので、いくら僕がウルトラ級の方向音痴であろうとも、その細道を真っ直ぐ歩いて、左に曲がり、また左に曲がれば、その広い道に戻れるだろうと思ったのです。

 

ところが「コの字型」になっているだろうと思っていた道が「扇型」になっていたようで、目的の場所に帰られなくなりましてね。

 

慌てて、来た道を引き返そうとしたのですが、来た道が分からなくなりまして、大慌てとなりました。

 

本番の時間に間に合わなくなる可能性が出て参りました。

で、村人に道を聞こうとしたのですが、誰も英語が分からないわけです。

 

いくつかの日陰の集団に、声をかけて回りました。

 

「誰か、英語が分かる人はいませんかぁーー!?」

 

やっと、一人の青年が手を上げてくれまして、まぁ、ホっとしましたね。

 

「日本から来ていて、散歩してるうちに道が分からなくな

 ってしまった。ここいら辺りで、一番広い道路はどこ

 だ?」

「◯◯ストリートのこと?」

「道路の名前は分からないけど、とにかく急いでる。教え

 てくれないか?」

「いいよ。では、〇〇ルピー貰える?」

「わかった。それでいい。とにかく急いでる。」

「じゃ、近道を通ろう。着いておいで。」

 

その青年は、小さな池に飛び出してる石をぴょんぴょんと軽やかに渡り、こっちへおいでと。

 

僕は、子供の頃から、そういうのは得意でしたので、彼の後に続いて、ぴょんぴょんと渡ったのですが、4つ目の石で滑ってしまい、池の中に落ちてしまいました・・・。

 

何がマズイかって、衣装を1パターンしか持って来てなかったのです。

これは、スタイリストの「グランドクロスくにこ」に、怒られてしまう・・・。

あいつ、包丁振り回すからなぁ・・・。

 

とりあえず、岸まで泳ぎ着いて、上がろうとしたのですが、その池の水が、泥水のように重たく、なかなか上がれないのです。

 

「手伝えよ!」

 

青年は、大笑いしています。

 

「笑うなよ!本当に時間がないんだよ!」

 

普通であれば、ひょいと上がることができるのですが、

まるでオイルの中にいるように水が重たいのです。

 

これ、うまく上がることができたとしても、ずぶ濡れで、

ソロ楽曲を歌うことになってしまいます。

 

まぁいいや。

それさえもネタにすればいい。

 

青年は手を伸ばして、僕を引き上げようとするのですが、

手が滑り、何度も何度も池の中に逆戻りしてしまいます。

 

マズイ・・・。

本当に、本番に遅れてしまう。

 

知らない土地で、方向音痴が散歩などしなければよかった・・・。

 

もう、足をバタバタ・・・。

あ、上がれない・・・。

 

そこで、目が覚めました。

布団を跳ね除けていました。

 

なんで、久しぶりの海外が、インドの農園なんだよ!

で、何で、歌番組スペシャル3時間海外生中継なんだよ!

 

夢日記

 

として書いておきます。

あー参った・・・。

 

5時09分。

もう一度、寝ます。

 

 

ASKA

 

カブトガニ

今、小学校時代の同級生が、母に線香を上げに来てくれました。

 

先日も、関東在住の、同じクラスだった女子(今は、立派なおばさん)二人が、僕の新居に遊びにきてくれました。

 

なんだかねぇ・・・。

ずっと、続いてるんですよ。

 

今日の友人は、ブログを読んでくれていまして、

 

「そうやもんねぇ。オレたち、定年やけんなぁ。」

 

と。

 

そして「沼のワニ」の話から「カブトガニ」へ。

 

カブトガニば、学校に持ってきたろうが?あれ、忘れん

 もんねぇ。」

 

そうでした。

そんなことがありました。

 

僕の父の実家は、海のすぐ側でしたので、近くの朝市では、捕れたばかりの魚やカニ、タコなど、魚介類が、ずらりと並べられ、セリが行われていたのです。

 

それを、いつも見に行っていました。

 

幼少の頃から、何度カニに指を挟まれたことか・・・。

 

6年生の時だったかな。

クラスの誰もが「カブトガニ」の存在を知らないのです。

甲羅が、戦国武将の兜(カブト)の形をしていることから「カブトガニ」と言われるのだと聞いていたのですが、今、調べましたら、どうやらそうではないようです。

名前の由来については、はっきりした説を見つけることができませんでした。

 

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大きなカニです。子供が、胸いっぱいに抱えるくらいデカイのですが、食用にはならないため、市場では、端っこの方に、追いやられ、捨てられていました。

 

今では「天然記念物」に指定しているところもあるようです。

 

ある日、僕は、こう思ったのです。

 

「これを、クラスの仲間に見せてあげよう。」

 

父の実家から僕の家まで、当時、車で2時間半かかりました。

 

日曜日の夜までは、動いていたのですが、翌日の朝には死んでいました。

 

それでもいいんです。

カブトガニ」の存在を教えることが目的ですので。

 

学校まで、約1キロ。

運びましたよ。

 

で、朝礼が始まるまで、クラスは大騒ぎでした。

「化石」と、言われる珍しいカニですからね。

 

さて、一通り、みんなが騒ぎ終わった後、このカニをどうするかなのです。

 

「先生ば、驚かそうぜ!!」

 

全員、一致。

 

教室には先生のデスクがありましたので、そのデスクの上に「カブトガニ」を置き、その上から雑巾を被せ、先生が来るのを待ったのでした。

 

普通は、先生が来るまで、ワイワイガヤガヤしているものなのですが、その日は、全員着席しているわけです。

 

どうなるかの予想がつかないため、みんなシーンとしています。

 

教室のドアが、横にスーッと開き、担任先生が入って来ました。

 

まぁ、変ですよ。

みんな、全員で先生の顔を見ているわけですから。

 

「なんか?何事か?」

 

みんな、だまーっています。

学級委員が「起立!」と、言う前に、先生、気がつきましたね。

盛り上がった雑巾に。

 

「(ニヤリ)これは何か?」

 

クラスの中には吹き出す者もいましたが、大半は、真顔でした。

 

先生、しばし、じっと見つめてるのです。

そして、もう一度、

 

「これはなんか?(ニヤリ)」

 

で、おそる恐る雑巾を一枚めくりました。

大人の、あんな声聞いたのは初めてでした。

 

「ギエっーーーーー!!!!!!!」

 

全員、大笑いだったのですが、笑わない人がひとりいました。

先生です。

 

「なんかーっ💢!!?? これはっ!!!」

 

まだ、一枚しかめくっていないのに、

これですから・・・。

 

後から聞いた話では、その先生、この類のものが、最も苦手だったようなのです。

 

もう、真顔・・・。

 

「だ、誰かっ💢!!??」

「持って来たとは、誰かっ!!!!」

 

参りました・・・。

ああまでエキサイトされるとは思いませんでしたので。

 

「も、持って来たとは、誰かぁ!!!!」

 

今度は、生徒が真顔になってしまいました。

 

「だ、誰かっ!!??」

 

僕は、仕方なくそうっと手を上げたのです。

 

「お前かっ!!!」

 

と、怒鳴る先生の目が周りを見渡すようになって行きました。

 

ん?

振り向くと、一人ずつ男子全員が手を上げていたのです。

 

「ちょ、張本人は誰かっ!!!」

 

また、全員です。

 

「す、捨てて来い!!!」

 

僕と、もう二人の三人で、ゴミ焼き場に捨てに行きました。

 

途中、廊下で大笑いしながら。

 

きっと、あの時、先生は「カブトガニ」を、確認していなかったはずです。

 

大人が、あそこまで怖がった姿を見たのは初めてかもしれません。

 

その日、下級生の間で、

 

「ゴミ焼き場に化け物がいる」

 

と、騒ぎになっていました。

 

カブトガニ

 

です。

 

 

ASKA

 

一回忌

今日は、母の「一回忌」でした。

 

亡くなったのは、去年1月11日ですが、

遠方より来ていただける方々には、日曜日の方が良いだろうと

いうことになり、本日でした。

 

正式には「二回忌」なんですね。

亡くなった年を「一回忌」と呼ぶそうなので、本日は「二回忌」。

そして、来年は「三回忌」なのだそうです。

 

うーん・・・。

ここいらあたり、あまり理解できてない。

 

11日は、家族だけで行おうと思っています。

 

1月11日。

 

「111」

 

パチンコが好きだった母。

 

よくまぁ、この日を選んで逝ったものだと・・・。

 

1年、早かったな。

 

 

ASKA

 

定年

僕の多くの友人たちは、今年「定年」を迎えます。

もちろん、定年後も働くことができるやつは「居残り」の制度というものがありますが、収入は半分以下になります。

 

僕の父は「自衛官」でしたが、父の定年は「51歳を迎える前日まで」でした。

僕のデビュー後でした。

 

隊員たちが、敬礼で横一列になったその前を、最後の制服を着て、

口を真一文字にし、涙で歩いていた光景を覚えています。

 

僕の友人のほとんどは、定年後の職が決まっていません。

「60歳」か・・・。

 

僕は、笑われるでしょうが、

自分は、まだ「40歳半ば」のような感覚しかありません。

 

知らないことばかり。

やれていないことばかり。

 

今後、どんなことがあろうとも、

僕の定年は、

 

「この世を去る時」

 

そんな気持ちでいたいなと思っています。

 

 

ASKA

動作がのろい・・・。

 

昨日は、福岡の高校、剣道部のOB会でした。

 

会を追うごとに、OB会の顔になってくものなのですね。

 

タクシーから降りて、

その食事処を探してた時、すれ違ったんです。

 

若い二人組みの女性に。

 

聞こえました。

噂話。

 

「ふらふら歩いてるよね?」

 

ふらふらではありません。

コキコキです。

 

元旦の初稽古。

2時間近くぶっ通しでやったんです。

 

4年間ぶりに・・・。

 

コキコキです。

 

階段を、降りるのが辛い・・・。

 

のろい・・・。

 

ASKA

昨日の「亀田大毅」君、素晴らしかった。

一人目、まずは、「ダッキング」「スウェー」を使って、

相手の攻撃を躱(かわ)しながら身体を温めましたね。

 

二人目からは、やや、遠慮してあげながら、5人まで、

元チャンピオンとして、当然の貫禄を見せつけました。

 

「勝った」

 

と、いう言葉は使いません。

プロであり、元世界チャンピオンがボクシング未経験者、

経験者に、その違いを世の中に教えてあげただけです。

 

大毅君(まだ、会っていないので、とりあえず『君づけ』)は、

網膜剥離がなければ、まだ、現役だったでしょう。

 

あの試合をご覧になられて、よくお分かりになったと思いますが、

「相手が打って来るのが見える」というより、打ってくるのが分かるのです。

 

打って来る瞬間の「気」を察するのです。

そして、それをどう躱すかが、そのボクサーのスタイルです。

躱したその瞬間、攻撃ができるできるように体勢を作っています。

 

格闘技は、その「気」の」読み、「気」を感じることができるかできないかで、

ほぼ勝負はつきます。

 

後は、努力によって身につけた「テクニック」と「スタミナ」です。

 

三男の「和毅(ともき)」君は、抜群のセンスを持っています。

 

必ず、再び「世界チャンピオン」に、返り咲くと信じて止みませんので、

「和毅」君のタイトルマッチを、楽しみにしていましょう。

 

兄貴の二人。

現役時代、日本中からあれほどバッシングを受けながら、

それを闘志に変えていました。

 

今、二人は「ボクシングの繁栄」のために、人生を捧げています。

 

この世の中に、ボクシングがあったこと、

巡り合ったことへの「恩返し」をしています。

 

みなさん、ご想像のとおり、年末に「興毅」と、会いました。

 

興毅が、どれほど礼儀正しい人物であるかは,

「AbemaTV」で、おおよそ気づかれたとは思いますが、

プライベートでは、もっと、もっと礼儀正しい。

 

ひとつだけ、言わせてくださいね。

 

興毅の「現役復帰」は、僕が誘ったわけではありません。

興毅が信頼を寄せている男友達、そして、僕の3人。

8時間くらい一緒にいたかな。

 

僕は「歌」と「剣道」を。

興毅は「ボクシング」を。

興毅の友人は「この国の未来」を。

 

話は、三者三様でした。

 

その時間の中で興毅の心に変化が現れました。

 

その時に感じたのです。

 

「ああ、今、興毅は現役復帰に心が揺れだしたな」

 

と。

 

ボクシング界において、

 

「名声」「注目度」「実力」

 

この、三つを兼ね備えているのは「亀田興毅」だけだと思うのです。

 

その興毅が「ボクシング界」のことを、真剣に考えている。

 

「気を察する」

 

と、いう力は天性のものもあるでしょうが、研ぎ澄まされて行きます。

それは、現役を退こうと、失うことはありません。

 

興毅は、まだ31歳。

トレーニングさえすれば、元に戻ります。

現役を退いた後、興毅の中では、自分が気づかぬうちに、

「イメージトレーニング」が、続いていたと思うのです。

 

この「イメージトレーニング」というものは、運動選手にとってというよりも、

生きる上で、最も大事なもの。

 

長くなりますね。

 

「ボクシング界」の未来を本気で考えている人。

復帰はそこにあるのでしょう。

 

応援せずにはいられません。

 

 

ASKA

 

約束

年末に、一人の男と、

 

「ある約束」

 

を、しました。

 

僕は、シンガーでありながら、

まだまだ、どこかにアスリートの部分が残っています。

 

今、初稽古から帰ってまいりました。

 

竹刀を握ったのは、4年ぶりぐらいだったかな?

武道館で試合に出たのが最後でしたので。

 

年末に、その「ある男」と、約束をいたしましたので、

元旦の初稽古に行ってきました。

 

今年、僕は約40年ぶりの挑戦をしようと思っています。

 

爽やかな元旦を迎えています。

 

 

ASKA

 

 

 

さぁ、2017年最終日

今年、僕は

 

「大殺界」

 

でした・・・。

 

大殺界の年には「新しいことを始めてはならない」と言われています。

 

「川は、流るるままに」

 

と、いうことなのでしょう。

 

その川の流れにも「清流」「激流」があります。

激流は、時に岩にぶち当たり、大きなしぶきをつくり跳ね返ります。

僕は、その瞬間の人生を迎えていたんじゃないかと。

 

その後は、また川の流れに戻ります。

 

なんてことを周りに伝えての1年でした。

 

「月殺界」

 

と、いうのがあることを、以前、ここでお伝えしましたっけ?

人には、1年において、必ず、2ヶ月間連なる「月殺界」と、いうのがあります。

 

僕は「10月」「11月」が、月殺界なのです。

 

もっとも、運の悪い月です。

 

「大殺界」に「月殺界」が、重なった先月は、最悪の月だったのです。

ようやっと、乗り切った気持ちでいます。

 

さぁ、厄で言えば、来年は「後厄」のようなものです。

悪いことはあったとしても、

確実に良い時に近づいて行くのだと思えば気が楽になります。

 

で、

 

で・・・。

 

来年の「誕生日運」を調べてみたのです。

1位から365位まで、占ってあります。

 

僕の誕生日、

 

「2月24日」

 

なんと!!!!!

 

365日中、

 

349位・・・

 

さて、これをポジティブに受け止められるよう、ずっと、考えたまま、

ブログが、進みませんでした・・・。

 

来年、でいいや・・・。

良いことが起きた日に、盛ります。

自分を・・・。

 

だって、

 

349位って・・・。

 

どうよ?

Fellows。

 

これ・・・。

 

最下位でなくて良かったぁ!!

ありがとうございますーー!!お前!!!だよ・・・。

 

ふふ・・・ 

ブブ⤵️・・・。

 

 

ASKA

 

 

「一度きりの笑顔」

Youtube」にての公開を思いついたのは、クリスマス3日前でした。

打ち合わせ帰りのタクシーの中で、街の中に飾られた「光のオブジェ」を見たときになのです。

 

去年の「FUKUOKA」の公開は、24日のお昼に思いつきました。

メディアの中には、僕のことを「策略家」と、表現したところもありました。

 

そうですね・・・。

数年後の景色を浮かべることは常々ですが、

そこへの道順を探るのは、得意ではないようです。

 

ですので、僕の行動には、あまり計画性というものがありません。

 

隣に座っていたFUJIではないマネージャーに、

 

「ロンドンに連絡をして、明日中に、雨のロンドンを感じることができる写真を送って

 欲しいと伝えてくれないかな?」

「何用ですか?」

「『一度きりの笑顔』に絵をつけて、クリスマスに公開したいんだよ。」

「編集の時間、ありませんよ。」

「23日の夕方までに写真が届いたら、編集はオレがやるから。」

 

「Weare」のロンドンでのキーマンは、藤本と言います。

そう。C&Aが初めて設立した個人事務所「REAL CAST」のロンドン支社、

「REAL CAST LONDON」の所長をやってくれていた人物です。

 

先日、「Weare」の打ち合わせのために、ロンドンから来日してくれました。

彼率いる「REAL CAST LONDON」があったからこそ、「MTV アンプラグド」への出

演が、滞りなく行われたと言っても、過言ではないでしょう。

 

全世界放送の「MTV アンプラグド」は、2年に渡って出演依頼を受けたのですが、

音楽をやっている者にはとっては、あまりにも「お化け番組」です。

 

1年目のお誘いは、お断り致してしまいました。

危険信号が点滅したからです。

 

アジアツアーの成功が「MTV」に届いたことが、お誘いのキッカケとなりましたが、

欧米クラスの、それも、選ばれしミュージシャンだけが出演することのできる

「MTV アンプラグドライブ」です。

 

もし、そこでアメリカやイギリスを初めとする世界の視聴者に受け入れられなかった時に僕らが受ける精神的なダメージは、その後のC&Aの活動で、大きな障害を抱えることになると思ったからです。

 

一口で言えば、怖かった。

 

「MTV」側が、僕らの出演を諦めてくれたとき、安堵したのを覚えています。

 

「なぜ?」

「どうして?」

「MTV アンプラグドだよ?」

「世界のミュージシャンが憧れてる番組だよ?」

 

ロンドン支社の外人スタッフたちには、僕らの恐怖が理解できなかったようです。

その後も、C&Aは、頻繁にロンドンを行き来していました。

 

向こうで活動している日本人のアーティストって、

音楽に限らず、実は本当に多いのです。

 

自分のポジションを確立し、普通に活動をしています。

認められてもいます。日本のメディアが知らないだけです。

 

日本のメディアは、日本人が、海外で仕事をすると、すぐに、

 

「世界の〇〇」

 

と、いう見出しをつけたがります・・・。

裏を返すと、外人コンプレックスだと思うのです。

 

もちろん、僕の中にも、それがあったようです。

ですから「恐怖」を感じたのでしょう。

 

海外で精力的に活動する多くの日本人との出会いから、

 

「もし、次に『MTV アンプラグド』からの出演依頼があったら、引き受けてみよう」

このように、気持ちは変化していきました。

しかし、MTVには、「出演を断られた」という感情が残ったでしょう。

 

「失礼なことをしてしまった。出演依頼は、もうないだろう」

 

そう思っていた矢先、再度のアプローチがあったのです。

それは、「REAL CAST LONDON」スタッフたちが、「MTV」と良い人間関係を築きあげてくれておりまして、翌年のアジアツアー成功の報告や、ライブ映像を「MTV」に観せてくれていたからでした。

 

そして、C&Aの「MTV アンプラグドライブ」は、その年の、ベストライブのひとつに選ばれ、その年、イギリスを含めるヨーロッパにおいて、クリスマスの一日中、何度も放送されました。

 

「一度きりの笑顔」

 

僕の中には、もう映像がありました。

マネージャーが、ロンドンの藤本と連絡がついたとき、彼はポーランドにいたのです。

 

それでも、藤本は動いてくれました。

また、僕には、彼が動いてくれるであろうということがわかっていたのです。

 

「プロでも、プロを目指している者でも構わない。『The London』と言える写真

 が、20枚から30枚。そして、動画がひとつあればいい。」

 

そして「Weare理念」に、賛同してくれたイギリス人と日本人のハーフ、

Akira Trees」から、写真が届きました。

茨城で生まれ、7歳で渡英。まだ、ロンドン大学を卒業したばかりの青年でした。

 

ロンドン大学か・・・。

なかなか入れる大学ではないと記憶しています。

 

ご存知のように、イギリスやアメリカでは、日本以上に「権利」が発生します。

しかし、「Akira Trees」は、ほぼ無償で、写真を提供してくれました。

 

その届けられた写真の中から「一度きりの笑顔」に合う写真を選び、

それを繋ぎ、完成したのは、23日の19時ごろでした。

 

しかし、「Youtube」に公開直前に、「赤の扉」「緑の扉」など、数点が、さらに送られてきました。これこそ、望んでいた写真でした。

 

すぐに、それらを動画に放り込む作業を行い、

全てが完了したのは、23日23時58分でした。

 

イブの2分前に完成した「一度きりの笑顔」。

 

みなさん、喜んでくれてどうもありがとう。

Akira Trees」は、それを、本当に喜んでくれました。

 

世界は、文化の違いにより、当然、人としての表現が違います。

しかし、「喜怒哀楽」は同じです。

 

みなさんや僕が、あの出来事によって「幸福感」を分け合った。

それが、彼に伝わった。

 

幸せな「クリスマスイブ」になりました。

 

で、早くも、来年のクリスマスがプレッシャーとなっています。

あれ、ほんとに思いつきですから・・・。

 

ほんと、思いつき。

期待されても困るわけです。

ホント、困る・・・。

マジ、困る・・・。

 

そして、いよいよ明日は、大晦日か・・・。

テレビ観なきゃね。

日本人としての大晦日の行事です。

 

で、

僕は「AbemaTV」で元旦に放送する、

 

亀田大毅に勝ったら1000万!!」

 

これが、楽しみです。

いろいろ、楽しみなんです・・・。

 

 

ASKA

 

P.S

1 月1日11時。

「一度きりの笑顔」

が、「Weare」から、配信されます。

 

「黄昏を待たずに」

も、

ASKAソロ」ハイレゾ配信も、1月に配信予定です。

 

「12月半ば配信」と、お伝え致しました。

遅れてしまいましたが、実は、遅らせたのです。

 

ハイレゾ配信日に、その意味を分かっていただけるはずです。

 

 

CDの置場

今朝方、すべてのCDを「iTunes」に取り込み終わりました。

この作業は、年を跨ぐと思っていましたので、ホッとしているところです。

 

4万曲近くありました。

 

ただ、「CDを聴いたら、すぐにケースに戻す」ということを、怠っていましたので、むき出しのCDと、空のケースの山に呆然としています。

 

これを、ちゃんと元に戻す作業が、来年、仕事始めの作業となります。

 

この作業で、いちばん困難なことは、CDデザインなのか、自己満足なのか、

「アーティス名」も「アルバムタイトル」も、何もない、

「真っ白なディスク」です。

 

これ、本当に迷惑。

 

僕は、これに出くわすと、マジックでデカデカと、

「アーティス名」「アルバムタイトル」を、書いた時もありました。

 

そのアーティストからすれば、

 

「なんとガサツな扱い」

 

と、思うでしょうが、購入者からしたら、迷惑極まりない・・・。

僕にも真っ白なデザインのCDはありますが、フォントサイズは小さくても、

「読める」「確認できる」ようにしています。

 

CDは、デカいダンボール箱7箱以上ありました。

 

とりあえず、3台のパソコンを使っての取り込み作業は終わりましたので、

このCDをどうするかなのです。

 

このブログ、社員たちにチェックされていますので・・・。

 

「会社は、倉庫ではありません!!」

「何を言っているんだい。倉庫だなんて。私は音楽事務所として、

 やはり、君達には他のCDのデザインにも敏感になって欲しいという前向きな

 気持ちでな・・・。それに、他のアーティストの楽曲にも触れて欲しい。

 そういう大きな気持ちが根底にあるからこそ、この大事に集めたCDを・・・

 いや、資料を会社に・・・そう!貸してあげようという気持ちから、泣く泣く

 会社に置いてあげようと思ってい」←最後まで話をさせてもらえず

 

「置かれてあげません。」

「・・・。アッハハ😅」

「その手には乗りません。」

「よし!わかった!こうしよう!!」

「しません。」

「・・・。」

「レコードの時と同じ手です。」

「オレの手か?」

「大型テレビみたいな爪でした。」

「オレだな・・・」

「はい。間違いなく。」

 

そうは言われてもねぇ・・・。

 

私、強行いたします。

その旨を、再度伝えるため、先ほど電話しましたところ、

会話の向こうで、

 

「コンコン!トントン!!」

 

と、音が鳴っていました。

あれ、バリケードを作っているのだと思います。

 

こうなれば、もう、あの手しかありません。

水道管の中に侵入するのです。←水道管にCDが入るかよ!!

 

スパイ教育をされた時に、ひととおり、やりましたので。←はい、いらっしゃーい

掃除機に吸い込まれた時は、あの特訓がなければ、

3日間も、持ちこたえられなかったでしょう。←それより「コロン・・・」だよ

私は、いろんな形に身体を変化させることができるのです。

 

トム・クルーズ、驚いてたっけなぁ・・・。

      ↑

来ましたぁ!ミッション イン ポッシブル!!

 

あいつ、私に、こう言ったのです。

 

「お前、何者?」

「I'm 変人」

「Oh!?Handling(ヘンジュリン)!」(とにかく思い通りにやるのか!)

                       ↑

                「直訳ではない」とは言え、苦しくないか?

「任せろ。」

「I know your name.Mark or Sello.

(お前は、時にマーク、時にセロ。スパイネームだ)

      ↑

だからぁ、直訳ではないにしろ・・・苦しいって・・・

 

まずは、

 

「こんにちは!宅配です!!」

 

から、やってみます。←ただの変装かい!!!

 

ASKA

 

昨年末から今日まで

激動の1年でした。

振り返ってみました。

 

はっぴょーーーデス!!!

 

1)1年で2枚のアルバムをリリース

2) Fellows結成(結成日は都合により持ち越し)

3) 生活環境が変わった

4) Burnish Stoneの稼働

5) Weare設立

5) DADAレーベル設立

6) イレブンキャラ確立

7) コンビニエンスストア(地域限定)7ヶ月連続

 ベストカスタマー受賞(本人リサーチ)

8) ヤフーオークション

 年間ベストカスタマー受賞(友人認定)

9) 東京スポーツ新聞『ガセネタ部門1位受賞』

 「ほら、パソコンから手が出てるでしょ!!?」

10) ASKA流行語

 ①「おかえりなさい」

 ②「お話できるんですね!?」

 ③「アリガトウゴザイマシタ、お前っ!」

 ④ 「あたしゃ、メッケン!!」

 ⑤「ふふ・・・。」

 

 特別賞部門

  「みんな、ごめんっ!!!」

  「スナック ASKA

  「誤字脱字・・・」

       「知らんがな・・・」

 

以上に、決定いたしました。

 

みなさん、本当に、

どうもありがとうございましたっ!お前。。。

 

 

ASKA

巣立ち

昨日、FUJIこと「藤山祥太」の、挨拶がありました。

僕らは、彼を「祥太」と、呼んでいました。

 

皆さんには「FUJI」として、紹介いたしました。

 

ご存知のように、コンプライアンスの問題で、何も動けなかった時に、

僕を迎えてくれたのが、ふるさと「福岡」でした。

 

ASKAバンドのコーラスを担当する「一木」が、僕を福岡に迎えるための、

すべての準備をしてくれました。

 

一木は、福岡に留まらず、九州全域で音楽制作をやっていますので、

とにかく顔の広いやつなのです。

 

ヤマハの、通称「ポプコン」では、高校生の時、すでに九州大会などに勝ち上がってきていましたので、年齢では僕の方が上ですが「ポプコン出場者」では、僕より先輩です。

 

一木は、僕の音楽をとても評価してくれており、彼の経営する「音楽スクール」では、

とりわけ僕の楽曲を課題曲にしたり、講義の題材にしてくれておりましたので、彼の教え子は、誰もみんな僕に敬意を払ってくれます。

 

祥太も、その一人でした。

 

祥太は、一木の「一番弟子」だったのです。

ですので、福岡でレコーディングをした「Too many people」では、

祥太は一木の指示で、何から何までサポートをしてくれたのです。

 

その仕事ぶりを見ていましたので、僕は、祥太を東京に連れてきました。

 

マネージャーとは、僕の代理ですので、外部に対しては、ある意味僕の顔なわけです。

未経験であっても構わない。そのうち仕事を覚えていけば良いことですので。

 

「僕の顔」となってくれるに有難い人物だと思いました。

皆さんも、仰ってくれるますように、祥太は、他人に嫌な思いをさせません。

いちばん大事なことです。

 

これって、どの世界においても言えることです。

僕は、他人と会った時に、心がけていることは、

 

「嫌な思い、気持ちにさせたくない」

 

これは信条です。

 

これを、皆さんが「人誑し(人たらし)」と、言うのであれば、

僕は自他共に認める人誑しなのでしょう。

 

彼の、音楽に対しての真っ直ぐなところに惹かれました。

お勉強も、ずば抜けてできます。

 

あの「孫正義」「ホリエモン」と、同じ学校出身です。

 

現在、祥太は27歳。

男、30歳を前にして、この1年間においての経験から、

人生の勝負に挑むのだと思います。

 

もともと、アーティスト志望ですので、日本の中心地においての経験から、

やがて迎える30歳までの3年間を、自分の活動に向けたいと決心したのです。

 

「思った時が、やる時」

 

物事には、すべて「タイミング」があります。

祥太は、人生において、今が、そのタイミングだと考えたのでしょう。

 

男の決心です。

 

「あの時、あの3年間をマネージャーとしてではなく、アーティスト活動に専念しておけば良かった・・・」

 

このような後悔はさせたくありません。

 

思い切りやってみればいい。

 

今後は、僕が祥太をサポートする番です。

 

この世界、どんなに才能があっても、成功するわけではありません。

僕は、これまで何度も、

 

「運だけでやれてきました」

 

と、語ってきました。

本当にそうなのです。

 

人との出会い、起こった出来事・・・。

振り返るたびに、本当に運が良かったと、心からそう思っています。

運だけでした。

 

でも、この「運」っていうやつ。

人生を様変わりさせるほど、大きな力があります。

 

その「運」が、祥太にあるかどうか、誰にもわかりません。

楽曲制作能力は、すでに十分あります。

ボーカルも、素晴らしい。

 

あとは、その「運」を、祥太が引き寄せることができるか。

出会うことができるか・・・。

 

アーティスト「藤山祥太」を、よろしくお願いいたします。

 

と、書いているところに祥太がやってまいりました。

これから、機材周りの環境を新しくしますので、そのセッティングが始まります。

 

だって、来年、

2月か3月から、毎月楽曲を発表することを、お約束してしまったでしょう?

 

引けない。

引けないってばヨ。

 

 

ASKA