井上カメラ店

先日「春日原」(かすがばる)という詩を掲載しました。僕が、生まれ育った街の駅名です。福岡の「西鉄大牟田線」にその駅はあります。僕の家から線路を渡り、右に歩いて行くと、直ぐ左に小さなアーケード街がありました。そのアーケードを入って15メートル程歩いたところの右側にその写真屋はありました。小学生の頃、父から貰ったお下がりのカメラがありました。縦型の長方形をした二眼レフカメラです。レンズが上下に二個ついたカメラです。数字の「8」のようです。

そのカメラは、上から覗き込むと、磨りガラスのような画面に十字の線があり、その線の中心に被写体を映しだしてゆくという仕組みになっていました。

 

フィルムは「12枚撮り」「24枚撮り」と、二種類売られておりましたが、小学生の僕は、12枚撮りしか買えませんでした。今はデジタルカメラの時代です。撮影に失敗しても、それを削除すれば、何枚でも撮れます。当時は、12枚フィルム。ピンぼけしたら、それで1枚は終わります。1枚を慎重に撮っていました。

 

そのアーケード内の店には、数回フィルムを買いに、または現像をお願いに行ったことがあります。

ある日、その店を訪れると、おじさんが居ました。背中を向けていました。

 

「こんにちは。」

 

振り向いてくれないのです。もう一度、挨拶をしました。それでも背中のままです。僕は、困ってしまいました。気がついてくれるまでに、数十秒かかったでしょうか。僕は、言いました。

 

「このカメラのフィルムを下さい。」

 

おじさんは、カメラを手にすると、カメラのカバーを外し、逆さにしたり、元に戻したり、レンズを覗いたりしています。どうやら、カメラが壊れたと思っているようでした。

 

「違うんです。フィルムを下さい。12枚撮りのやつを。」

 

黙っています。僕の顔をじっと見ています。笑顔はありません。僕は、店を見渡し、そのフィルムを見つけました。そして、それを指さし、

 

「あのフィルムを下さい。」

 

おじさんは、ようやくフィルムを手にし、それを僕に手渡してくれました。財布から、お金を取り出し、差し出すと、無言でお釣りだけをくれました。店のドアを閉めて出て行くまで、一言も口を開いてくれませんでした。あれ以来、その店には行っていません。子供心にわだかまりを覚えたのでしょうね。

 

時は過ぎ、大人になり、僕は歌手デビューをしました。活動25年目を過ぎた頃でしょうか、もっと後のことだったでしょうか。僕の目に、一冊の写真集が飛び込んで来ました。昭和30年代の街の風景です。「こどものいた街」というタイトルでした。それをめくって驚いたのです。「春日原」の風景でした。昭和30年から40年にかけての春日原の風景でした。主役は、景色ではなく子供たちでした。その街を背景とした、当時の子供たちが、その写真集にいっぱいに収められておりました。食い入るように見つめました。自分が写っているのではないかと思ったのです。最後まで、めくりましたが、僕らしい人物はありませんでしたが。「そうそう、こうだった」「春日原駅は、こうだった」と、懐かしさ、タイムスリップ感で、その写真集を買いました。「龍神池でケンカする子供」と、いう写真もありました。当時、その龍神池は、向こう岸が、遥か遠くに見えるくらいに大きかったのです。現在は、埋め立てをされ、小さな池になっています。知った顔が現れるのではないかと、一枚一枚、じっくり眺めましたが、もう遠い、遠い記憶のこと。知り合いを見つけることはできませんでしたが、忘れてしまっただけで、その中には間違いなく知った子がいるはずです。

 

その頃の道路は土道で、ときに馬や牛が歩いていました。馬や牛の糞を踏まないように、気を付けながら歩いていました。その頃の、男の子の多くは坊主頭でした。女の子は、みんなおかっぱでした。誰もが、貧しかった頃です。なので、それを貧しいと思ったことはありません。みんなが同じでしたから。写真を撮ったのは誰でしょう?写真誌の表紙には「井上孝治」と記されてありました。昭和の風景を撮り続けた写真家であったことが分かりました。井上さんが、亡くなった後、井上さんの息子さんが、仕舞い込んであった膨大のフィルムを現像したところ、これらの写真が出てきたというエピソードが綴られていました。昭和30年代が、現代に蘇ってきたのです。井上さんは、春日原で写真屋を営んでいたとのことでした。聴覚に障害を持たれ、他の写真家たちからは、

 

「井上の写真には勝てない。音の無い世界から写された写真だ。あの集中力には誰も勝てなかった。」

 

と、言われていたのです。あの、温かく、また鋭く切り取られた一瞬の光景は、耳に障害を抱えた、井上さんならではの作品なのでしょう。そうして、思い出したのです。「春日原の写真屋?」2、3軒しかありません。記憶を、解いて行きました。

 

「あ、あのときのおじさんだ!」

 

そうです。一言も喋ってくれなかった、あの時の、あのおじさんに違いありません。間もなくして、井上さんの息子さんと繋がりました。あのアーケードで写真屋を営んでいたとのことです。あの日のわだかまりが、約40年を経て解決されました。

 

「耳が聞こえなかったんだ・・。」

 

その写真等は、先ほども言いましたように、息子さんの手によって現代に蘇り、そして、数々の賞を獲りました。昭和のあの風景、子供たち。その後、2冊目も手にしました。今でも、時々眺めています。作品は、時代を超えて残って行く。僕の楽曲も、そうなれば幸せなことだなと、感傷にふけっています。

ASKA