ONE

アルバム「ONE」がリリースされたのは、1997年なんだなぁ。

 

あの時、僕は「掟破り」のレコーディングをしたのです。

1枚のアルバムに3人のプロデュサーを立てるというやり方でした。

 

普通はあり得ません。

 

プロデュサーは、誰もプライドがありますので、そのアーティストと並列でクレジットされることはあっても、他のプロデューサーと共に、1枚のアルバムを手がけるなどということは、余程の理由なしにはありません。

 

ロンドンレコーディングでしたね。

 

もちろん、皆、最初は「NO」でしたが、

 

「なぜ、僕があなたを選んだか?」

「このアルバムは、いろんな意味で実験アルバムだ」

 

それを、丁寧に伝えましたところ、3人とも「OK」を出してくれたのです。

 

まず、一人目は「Wham」などを手がけた「CHRIS PORTER

彼は、終始「ASKAジョージ・マイケルが被る」と言ってました。メロディを作るにおいての拘りと雰囲気がよく似てるとのことでした。僕もジョージのメロディは好きでしたので、悪い気はしませんでしたね。むしろ、光栄でした。スタジオでは常に、僕の顔色を伺っているのが印象的でした。レコーディング中、少しでも僕が怪訝な顔をすると、すぐに、

 

「別のアプローチを試してみよう」

 

と、ミュージシャンに投げかけました。恐ろしいくらい敏感でした。

 

二人目は「Swing Out Sister」のプロデューサーを長くやっている「Paul O'Duffy」

彼とは「THE RIVER」や「Castles In The Air 」を一緒に制作しましたので、僕のこともよく知っていてくれました。スタジオワークはスムーズでしたね。

 

「『ID』をシングルにすべきだ」

 

と、迷っていた僕の背中を押してくれたのがPaulでした。

 

随分迷ったのが、三人目のプロデューサーでした。

「だれ誰をやっているプロデューサー」と、いう肩書きは必要なかったのです。

 

「僕の琴線に触れた人」

 

必要なことは、これだけでした。日本であらゆるアルバムを聴きまくりました。

そして、どのアーティストのアルバムであったのかは、覚えていませんが「哀愁」を漂わせたポップスでありながら、どこか「今」というだけではない音作りをしていた「Paul Wickens」というミュージシャンに、興味を持ったのです。イギリスのミュージシャンを通じてPaulに連絡を入れました。

彼の答えは、こうでした。

 

「実力がわからないので、なんとも答えられない」

 

すぐにデモ音源を送り、彼が、僕のメロディを気に入ってくれ、一緒にやることが決まりました。スタジオに入ってから知ったのですが、彼、ポールマッカートニーのキーボーディストでした。

 

で、いつか、このブログでお話したことにつながるのです。僕は、ポール・マッカートニー日本公演の時、ポールのファミリーパーティに招かれました。

アルバム「ONE」は、その時に出会ったミュージシャンたちとのレコーディングでした。本当に偶然だったのです。三人のプロデューサーが、僕の音楽を聴き、集めたメンバーが、彼達だったのです。途中で気づきあったミュージシャン全員とハグをし合いました。全員、僕を覚えてくれていましたので。

 

そのPaul Wickensとのレコーディングは、彼のホームスタジオで行いました。

イギリスでは普通の佇まいをしている家です。その家を改造してスタジオにしてあったのです。スタジオのドアを開ける手前の左壁に、オーラを放ったような額縁が掛かっていました。本当に目を奪われてしまったのです。額縁には、コンサートチケットが、円陣を組むように並んでいました。

 

Paul McCartney World Tour」

 

という、パネルを、全世界公演のチケットが囲んでいるのです。

 

「これは?」

「ああ。それはポールがワールドツアーを終了した後、メンバー全員にくれたんだよ。」

「すごい!嬉しかったでしょう?」

「最高の宝物なんだ。」

「もし、僕がツアーをやる時は、同じことをしたいよ。」

「メンバーは、きっと大切にしてくれるからやってみな。」

 

その後、僕は、初めてのソロツアーを行なったのです。

最後には「上海」も、加わりました。

本当に、思い出のライブです。

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ASKA