ここは僕とみなさんの強い絆の場。
人間の得る情報は、まず目から入ってきます。
聞いたことは、信じる信じないの選択がありますが、視覚からの情報は、見た人の確認となるために、文字を読むということは事実としてセーブされていきます。
それだけ、文字というものには力があり、また危険な要素を多分に孕んでしまうのです。
たくさんの人たちがここを訪れてくれています。
業界人の会う人、会う人が、
「ブログ、読んでますよ。」
と、言ってくれます。
僕が「SCOOP!」の話に触れなければ、「SCOOP!」を読んだ人たちの心の中には、ここでは触れないにしろ、もやもやとした気持ちが生まれてしまうでしょう。
これまでの報道で揺れたように。
そういう思いをさせたくなかったので書きました。
「SCOOP!」は、僕が覚せい剤を吸引する場面から始まります。詳細に描写してあります。しかし、文春の中村竜太郎氏は、その動画を観てはいません。確かに、彼はそれを観たとは書いていません。後々起こるであろうトラブルを回避するための手法を取っています。
「私は観たとは書いていないじゃないか!」
しかし、読者には観たのだと錯覚させるように書いています。
これを「未必の故意」と言います。そうなることを、またはそういう心理状態にさせることを分かって、行う犯罪行為です。
なぜ、観ていないという確証があるのか。
これは、今はここでは書きません。
出版業界は狭い世界です。僕の「700番」の出版は、彼に遭遇したときに、僕の方から口頭でお伝えしました。
1巻、2巻をすでに描き上げていますので、どういう内容なのかの情報は漏れているでしょう。
知人からは「文春側は、かなりナーバスになっている」との報告がありました。
「我々が、書いたことは入念な取材を経てのものであり、間違いはないと断言する。」
文春は、記事にしたことの多くが真実ではなかったことを知っています。しかし、書いてしまった以上、それを真実として貫き通すしかないのです。
例えば、
「○○は、あんなことをやってるよ。」という情報を得たとします。しかし、
「○○は、そんなことはしないよ。」
という、話も聞かされます。
しかし、記事では「やってるよ」の方を優先します。
そして、「入念な取材によって証言を得ている」と、なります。
確かに、そういう情報もあったわけですから、嘘ではありません。
「ASKAが幼少の頃住んでいた北海道時代の同級生がヤクザになって、後に札幌で偶然遭遇して仲良くなったんだ。」
これが、嘘であることを文春は知っています。しかし、聞いたという事実があれば、そう書いた方が面白いのです。
以前の自分たちが書いたことに間違いが無いことを強調するために「SCOOP!」では、再度そう書きました。書いてあることのすべては、そういう具合です。
彼は、文春を退社しましたので、もう文春とは関係のない立場に居るように見えますが、フリーになった今も文春に身を置いています。社外スタッフです。
僕は犯罪を犯しました。これは一生背負って行かなければならない事実です。「犯罪者に発言は与えない」という論理を押し通しす、またはプロモーションを展開するでしょう。
自分たちを守るには、もうそれしかないのですから。
どんな人間であれ、生きる権利はあります。
その権利を、偽ジャーナリズムで潰そうとする行いに、目を背けるわけにはいきません。
昨日「700番 1巻」の表紙の第一項が上がってまいりました。
「SCOOP!」が、漫画であることを証明してみせます。
僕が、音楽をやるためには、避けてとおれないできごとなのです。
大丈夫ですよ、みなさん。
心は平安です。
不安な要素は何もありません。