井上カメラ店

先日「春日原」(かすがばる)という詩を掲載しました。僕が、生まれ育った街の駅名です。福岡の「西鉄大牟田線」にその駅はあります。僕の家から線路を渡り、右に歩いて行くと、直ぐ左に小さなアーケード街がありました。そのアーケードを入って15メートル程歩いたところの右側にその写真屋はありました。小学生の頃、父から貰ったお下がりのカメラがありました。縦型の長方形をした二眼レフカメラです。レンズが上下に二個ついたカメラです。数字の「8」のようです。

そのカメラは、上から覗き込むと、磨りガラスのような画面に十字の線があり、その線の中心に被写体を映しだしてゆくという仕組みになっていました。

 

フィルムは「12枚撮り」「24枚撮り」と、二種類売られておりましたが、小学生の僕は、12枚撮りしか買えませんでした。今はデジタルカメラの時代です。撮影に失敗しても、それを削除すれば、何枚でも撮れます。当時は、12枚フィルム。ピンぼけしたら、それで1枚は終わります。1枚を慎重に撮っていました。

 

そのアーケード内の店には、数回フィルムを買いに、または現像をお願いに行ったことがあります。

ある日、その店を訪れると、おじさんが居ました。背中を向けていました。

 

「こんにちは。」

 

振り向いてくれないのです。もう一度、挨拶をしました。それでも背中のままです。僕は、困ってしまいました。気がついてくれるまでに、数十秒かかったでしょうか。僕は、言いました。

 

「このカメラのフィルムを下さい。」

 

おじさんは、カメラを手にすると、カメラのカバーを外し、逆さにしたり、元に戻したり、レンズを覗いたりしています。どうやら、カメラが壊れたと思っているようでした。

 

「違うんです。フィルムを下さい。12枚撮りのやつを。」

 

黙っています。僕の顔をじっと見ています。笑顔はありません。僕は、店を見渡し、そのフィルムを見つけました。そして、それを指さし、

 

「あのフィルムを下さい。」

 

おじさんは、ようやくフィルムを手にし、それを僕に手渡してくれました。財布から、お金を取り出し、差し出すと、無言でお釣りだけをくれました。店のドアを閉めて出て行くまで、一言も口を開いてくれませんでした。あれ以来、その店には行っていません。子供心にわだかまりを覚えたのでしょうね。

 

時は過ぎ、大人になり、僕は歌手デビューをしました。活動25年目を過ぎた頃でしょうか、もっと後のことだったでしょうか。僕の目に、一冊の写真集が飛び込んで来ました。昭和30年代の街の風景です。「こどものいた街」というタイトルでした。それをめくって驚いたのです。「春日原」の風景でした。昭和30年から40年にかけての春日原の風景でした。主役は、景色ではなく子供たちでした。その街を背景とした、当時の子供たちが、その写真集にいっぱいに収められておりました。食い入るように見つめました。自分が写っているのではないかと思ったのです。最後まで、めくりましたが、僕らしい人物はありませんでしたが。「そうそう、こうだった」「春日原駅は、こうだった」と、懐かしさ、タイムスリップ感で、その写真集を買いました。「龍神池でケンカする子供」と、いう写真もありました。当時、その龍神池は、向こう岸が、遥か遠くに見えるくらいに大きかったのです。現在は、埋め立てをされ、小さな池になっています。知った顔が現れるのではないかと、一枚一枚、じっくり眺めましたが、もう遠い、遠い記憶のこと。知り合いを見つけることはできませんでしたが、忘れてしまっただけで、その中には間違いなく知った子がいるはずです。

 

その頃の道路は土道で、ときに馬や牛が歩いていました。馬や牛の糞を踏まないように、気を付けながら歩いていました。その頃の、男の子の多くは坊主頭でした。女の子は、みんなおかっぱでした。誰もが、貧しかった頃です。なので、それを貧しいと思ったことはありません。みんなが同じでしたから。写真を撮ったのは誰でしょう?写真誌の表紙には「井上孝治」と記されてありました。昭和の風景を撮り続けた写真家であったことが分かりました。井上さんが、亡くなった後、井上さんの息子さんが、仕舞い込んであった膨大のフィルムを現像したところ、これらの写真が出てきたというエピソードが綴られていました。昭和30年代が、現代に蘇ってきたのです。井上さんは、春日原で写真屋を営んでいたとのことでした。聴覚に障害を持たれ、他の写真家たちからは、

 

「井上の写真には勝てない。音の無い世界から写された写真だ。あの集中力には誰も勝てなかった。」

 

と、言われていたのです。あの、温かく、また鋭く切り取られた一瞬の光景は、耳に障害を抱えた、井上さんならではの作品なのでしょう。そうして、思い出したのです。「春日原の写真屋?」2、3軒しかありません。記憶を、解いて行きました。

 

「あ、あのときのおじさんだ!」

 

そうです。一言も喋ってくれなかった、あの時の、あのおじさんに違いありません。間もなくして、井上さんの息子さんと繋がりました。あのアーケードで写真屋を営んでいたとのことです。あの日のわだかまりが、約40年を経て解決されました。

 

「耳が聞こえなかったんだ・・。」

 

その写真等は、先ほども言いましたように、息子さんの手によって現代に蘇り、そして、数々の賞を獲りました。昭和のあの風景、子供たち。その後、2冊目も手にしました。今でも、時々眺めています。作品は、時代を超えて残って行く。僕の楽曲も、そうなれば幸せなことだなと、感傷にふけっています。

ASKA

木の気

あれは、30年ぐらい前のことかなぁ・・。未だに、なぜそうなったのか、理由が分からないのです。四国の松山でした。朝、ベッドから起き上がろうとした時に、激痛が走ったのです。それまで、味わったことのない痛みでした。肩、背中にかけて、まるで刀で切られたような痛みでした。ベッドから、起き上がろうにも、身体を捻られないのです。そのまま、ベッドに身体をあずけ、しばらく天井を見上げていました。マネージャーに電話しようにも、電話まで、手が届きません。部屋に鳴り響く目覚まし時計を止めることもできません。

 

その日は、ライブが休みの日でした。じっとしていると、痛みはないのですが、

身体を動かそうとすると、その激痛に見舞われます。鳴り止まない目覚ましが、

嫌がらせのように部屋に響いています。そして、やっとそれが止まったとき、部屋に静寂が訪れました。なぜこうなったのか原因を考えていましたが、思い当たる節がありません。ただただ、じっとしていました。昼過ぎに、電話がかかってきました。しかし、電話に出ることができません。それから、1時間ほどして、再び電話が鳴りました。マネージャーからでしょう。電話は、長いコール音の後、途切れました。それから、数分後、ドアをノックする音がしました。

助かりました。声は出せますから。

 

ASKAさーん!」

 

マネージャーです。ここが、福岡や札幌であれば、友人たちと外出していると、すまされたのでしょうが、ここは松山です。不自然に感じたマネージャーが、

心配して部屋に来たのです。僕は、大声で叫びました。

 

「身体が痛くて起き上がれない!!」

「どうしました!?」

 

ドア越しのやり取りです。

 

「わかんない!」

「大丈夫ですか!?」

「フロントに行って、合い鍵をもらって、部屋に入ってきてくれ!!」

 

数分後、ドアは開けられ、ホテルの従業員と、マネージャーが入って来ました。

寝たままで会話をしました。

 

「とにかく、起き上がれないんだよ。」

「病院に行きましょうか?」

「いや、病院ではシップくらいしか方法がないだろうから、整体か針灸院の方がいいと思う。イベンターに連絡して、探してくれないか?」

 

それから、1時間ほどして、針灸院が見つかりました。ホテルの従業員とマネージャーに身体を抱かれるように起こしてもらいました。間もなくイベンターが駆けつけてくれました。顔を洗うこともできず、そのまま三人に抱えられるように、廊下を歩き、エレベータに乗り、腰をかがめるようにロビーを歩き、やっとのことで、タクシーに乗り込みました。シートに座る行為にも激痛が走ります。

 

そこは、松山市内から30分程のところにありました。古い木造建築の小さな針灸院でした。6畳程の待合室にはソファがありましたが、座るのにも痛みがありますし、立ち上がる時の痛みを考えると、このまま立っている方がましです。

壁には、知り合いのアーティストのサインが飾ってありました。イベンターに尋ねました。

 

「ここ、有名なの?」

「有名かどうかは、分かりませんが、以前、同じようなことがありまして、○○さんが、治療後に『ここは凄い』と、仰ってたのを思いだしたんですよ。」

 

15分程待たされた後、名前を呼ばれました。治療室に入ります。狭い部屋でしたが、そんな狭い部屋には、そぐわないほどの大きさの鉢植えされた木がありました。

 

医院長は、ご高齢の方でした。痛みの度合い、そして箇所を伝えます。

 

「では、うつぶせになって下さい。」

 

Tシャツを脱ぎ、ベッドに伏せました。そして、医院長は、背中は触らず、左足のふくらはぎを指で押し始めました。

 

「そこではないのに・・。」

 

それから、医院長は背中向きになり、独り言を言ってます。

 

「これかな?いや、こっちの方かな・・?」

 

そう言って、振り返った時には、一本の針を持っていました。畳針のような太さの針でした。30センチくらいの長さをしています。畳針では想像がつかない方もおられますね。そうだなぁ。マドラーぐらいの太さと言えば想像していただけますか?

 

「嘘だろ・・?」

 

中国針でした。中国針は、日本の針よりも、遥かに太いのです。

 

「そ、それを刺すんですか・・?」

「そうですよ。大丈夫、そんなに痛みはないですから。」

 

いや、あるでしょ。医院長は、僕のふくらはぎを数回押しました。ツボを探しているようです。

 

「ここだね。」

 

そう言うと、突然針を刺しました。

 

「うがが−!!」

 

「い、痛い!痛いじゃないですか!!」

「大丈夫、痛くないから。」

 

いや、痛いって。今、みなさんはその針が、僕のふくらはぎに刺されている光景を思い浮かべられているでしょう?話は、これからです。なんと、その針を、引いたり、押し込んだりを繰り返し始めたのです。のこぎりを引くときのような仕草で。ぐちゅぐちゅと音がします。

 

「あたた、あたた!!」

 

30秒程続きました。痛いのなんのって。ふくらはぎと背中の関係が理解できません。そして、その動作は止まりました。針は、深く刺さったままです。痛みはやわらぎましたが、針は刺さっているのです。それでも痛いものは痛い。

 

そして、医院長は、ベッドの横の、疲れたようにだらりと掛けられてる、一本のケーブル?ひも?それを、掴むと、その不自然のように置いてあった木の葉に繋げました。そして、そのケーブル?ひも?の片方を、僕の足に繋げたのです。

 

「何ですか?」

「今から、木の気を流します。」

「木の気?」

 

ギャグ?CHAGEでも使わないギャグです。それを、黙って受け入れなくてはならない僕は、もっとギャグです。「部屋と私と木と気」。

間違ってる。絶対間違いだってば・・。しかし、訪れた以上、受け入れなくてはなりません。10分程、その状態が続いたでしょうか?もんもんとしていました。

 

「そとそろ、いいでしょう。」

 

ふくらはぎに刺されていた、その畳針、いや、中国針は抜かれました。

 

「どうぞ、立ってみて下さい。」

 

立てないってば・・。おそるおそる言われたとおりにしてみました。まず、肘を立ててみました。痛みは感じませんでした。そして、手をつけて身体を起き上がらせてみました。痛みがありません。ベッドから下りました。背筋を伸ばしてみます。嘘でしょ?身体を丸めるように訪れた、さっきまでの状態は何だったのでしょう?全く、痛みがありません。しゃんと歩けます。

 

「先生、何ですか?これは。」

「木の気です。」

「木の気?初めてなんですけど。」

「私があみ出しました。」

 

木の気。こんな治療があるんですねぇ。翌日のライブは絶好調で終えました。

それから、数年後。

 

先輩シンガーのOさんから、言われました。

 

「オマエ、松山で針治療に行ったろ?」

「何で、知ってるんですか?」

「サインがあったから。」

 

Oさんも、行ってんじゃん。「木の気」同士です。

ASKA

 

無題

著書「インタビュー」の中で、「僕にはヤクザの友達がいる」と、書きました。

本を、出版する頃には、もう、足を洗っており、ヤクザではなかったのですけどね。メディアの中には、本を読みもせず、事件と結びつけて煽ったところがありました。現在の、メディアの多くは、記事を書く際に、自分の足を使わず、ネットを徘徊し、裏も取らず、記事にするところも多いように見え受けられます。ターゲットを決めると、記事は悪意を込めて彩られ、雑誌を売るために、大衆が興味を抱くようなタイトルが付けられます。今回の、僕の1件で、すでにお気づきの方も多いと思われますが、「近しい関係者」や「音楽関係者」の情報などというものは、すべてデタラメです。記者が、勝手に作りあげた人物です。いちいち反応するつもりはありません。それは誰だ?と、詰め寄ったところで、「ソースは明かせられない」と、なるだけですから。今回、僕がブログを始めたことで、彼らはそれができなくなりました。

 

600万アクセスを超えました。日々を追うごとに、YahooやGoogle検索からのアクセスが増え、今ではそれが過半数を占めています。毎日、新しい読者が増え続けています。ユニークアクセスというものがあります。アクセスが、同じ人によってか、そうでないかを見分けられるのです。それによれば、このブログは、現在、週刊誌同等の効力を発揮しているようです。もちろんブログ開始の時は、そんなことは考えておりませんでした。「ご心配、ご迷惑、おかけいたしました。申し訳ありません。僕は、至って健康で、元気です」と、いうことを、お伝えするために始めたブログでした。それ以上の考えはありません。毎日、ひとつずつ記事を書けて行ければ良いなという気持ちで始めました。1月のブログは、何者かによって、直ぐに削除されてしまいましたので、目立たぬようひっそりと始めました。気づいてくれた方たちが読んでくれれば十分だという思いで始めた気持ちに嘘はありません。よく言います。「出た杭は叩かれる」しかし「出過ぎた杭は叩けない」。

この膨大なアクセス数によって、このブログは守られました。削除ができなくなったのだと思います。みなさんのお陰です。本当にありがとうございます。

 

そして、みなさんから頂いたコメントに関する答えのようなものは、「700番 第2巻」にすべて書かれてありますので、是非、読んで頂きたいと願っています。

また、ここでの否定的な意見にも、心に深く響くものがあります。なぜならば、十分予想しての事だからです。世間の総意を代弁してくれています。感謝します。勇気を出してくれて、ありがとう。お返しは、音楽でさせていただきます。

否定コメントのなかには、何も感じるものがないのもあります。正直な気持ちです。ごめんなさい。ただ、マスコミの興味は、そういうコメントこそにあります。記事にするなら「もって来い」の内容となって紹介されるでしょう。まだ、そうなっていないのは、みなさんの温かいコメントが、それらを振り切っているからだと思います。そして、僕が、温かいコメントだけを、手放しで喜んでいるわけではないことも知っていてくださいね。ぬるま湯に浸かろうとは、思っていませんので。後、10日。いろんな意見をお待ちしております。

 

 

話が逸れました。冒頭の「ヤクザの友だち」は、7年前に他界しました。他界する直前、最後にあいつと喋ったのは僕でした。電話でした。幼い頃からの関係です。竹馬の友です。一緒にセミ採りをしながら育ちました。こよなく動物を愛するヤツでした。想い出を分け合いながら、大人になりました。

 

先日、やっと線香を上げに行ってきました。仏壇は、お兄さんのもとにありました。写真は、ヤンキー時代のものでしたが、表情は、一緒にセミ採りをした幼少時代の面影が、しっかりとありました。いいんです。僕だけが、それに気づいてあげれば。線香を上げた後、胸の中にあった重たいものが、スーッと消えて行きました。

 

「来てくれて、ありがとうな。」

 

と、いう言葉を感じました。メディアがなんと書こうとも、この気持ちが揺らぐことはありません。行ってよかった、行けてよかった。僕は、あいつの友達です。憧憬を壊すようなことは、決して、して欲しくない。日本一のチームと対戦して、勝つことができたのは、あいつの渾身を込めた1本でした。一生、忘れないからな。また、いつか一緒に剣道をしような。

ASKA

剣道

オリンピック、早速、日本勢が頑張っていますね。メダルの行方が今から楽しみです。オリンピックの度に思うのです。剣道が、オリンピック種目に入ればメダルは確実なのにと。1970年から始まった、3年ごとに行われる剣道世界選手権では、ただ、1度逃しただけで、後はすべて日本が優勝しています。続いて、韓国が強いですね。ここ数年はアメリカが追ってきています。

 

これだけ世界中に広がっている剣道が、なぜ、オリンピック種目に選ばれないのか?実は、選ばれないのではないのです。日本剣道連盟がオリンピックを拒否しているのです。なぜ、オリンピックを拒否するのか?それは、日本の剣道でありたいからです。それと、外国人審判員の力量も相まっています。

 

柔道もオリンピック種目になってから、受け継がれてきた柔道では無くなってしまいました。外国選手が有利になるよう、国際ルールの基で試合することを余儀なくされてしまいました。強すぎる日本に対して、国際ルールは増えてゆくばかりです。

 

剣道は、試合中、自分をアピールしたり、選手に対してブーイングすることはありません。礼にはじまって礼に終わる。ガッツポーズなどは、もっての他です。

 

僕は、高校生の時、北海道大会で、最優秀選手に選ばれました。最優秀選手は、優勝とまた別のものです。実は、最優秀選手の選考では、審判員がふたつに分かれたのです。もうひとりの選手の名前が上がっていました。最終的に、試合における態度という観点から僕に決まったようですが、僕は、その相手を認めていましたし、彼がもらってもなんら不平はありませんでした。本当に、強かったですからね。しかし、審判員は礼を重んじました。

 

もし、剣道が国際ルールになれば、礼を重んじるという剣道の精神が、変化してゆくことに慎重になっています。日本剣道連盟は、それを嫌っているのです。

 

しかし、最近の世界選手権では、その剣道精神が根付いてきています。見苦しい仕草は見受けられません。本来の剣道の姿が、世界に浸透して行っているように見えます。

 

今、思うのです。世界選手権が普通に行われているのです。ルールを変えるという気配は見当たりません。日本の剣道を、世界が受け止めています。

 

もう、そろそろ、オリンピックに参加しても良いのではないでしょうか。剣道人口が減少してきているのは、剣道がメジャーなスポーツではないからです。オリンピックに出場することは大きな意味があります。メジャーなスポーツになることを願ってやみません。

ASKA

 

再公演

「あれ?喉の奥がかゆい・・。」

 

2008年10月4日。深夜のできごとでした。軽い咳が出ます。経験上、このような時は危ないのです。喉の奥がかゆく、そしてやんわり温かくなってきた時は、要注意なのです。風邪です。明日は、シンフォニック福岡公演です。夜中に、飛び起きて長めのウガイをしました。

 

翌日、昼2時頃にマリンメッセに入り、リハーサルをしました。問題はありません。リハーサル後に、少し、身体が火照ってきましたので、直ぐに病院へ行き、点滴をしました。あくまで、身体の事故を未然に防ぐためです。点滴後も、いつもの状態で、その時が来るまでは、身体の調子のことなど、何も思い出さなかったのです。

 

本番になりました。1曲目、2曲目と進んで行きます。いつもと変わりません。

オーディエンスの温かい拍手が包んでくれます。オーケストラのみなさんも、喜びを感じて演奏してくれているのがわかります。それは、5曲目の時に起こりました。喉が熱くなってきたのです。暖まってきたという感じではありません。

熱いのです。その瞬間に思いました。

 

「マズい・・。」

 

そして、昨夜の風邪のことを思い出したのです。直ぐに喉に負担のかからない歌い方、すべてをミックスボイスに切り替えたのですが、もう時は遅しでした。

カスカスの声になってしまったのです。オーディエンスは敏感です。歌い手の動揺など、直ぐに見抜いてしまいます。このような時に、いつも思うことがあります。

 

「オレは、プロだ。」

 

良い響きで聴いてもらえないオーディエンスに申し訳ないと思いながら、ステージは進んでいきました。精神状態ですか?はい。正直に言いますと、何度もくじけそうになりました。しかし、僕はプロです。本編を終えて、ステージサイドに戻りました。高いお金を払って観に来て頂いているのに、このままでは、申し訳が立たない。

 

ステージサイドに戻ってから、この気持ちを、ステージプランナーの大久保に伝えようとしました。すると、大久保の方から、

 

ASKAさん、分かってます。いま、マリンメッセの空き状態を聞いてますから、アンコール、乗り切ってください。」

 

スタッフは、コンサート中盤で、そう判断し、もう、再公演のためのスケジュール調整をやっていてくれたのです。

 

「ありがとう。申し訳ない。」

 

何とか、アンコールを終えることができました。そして、最後に、オーディエンスに向かって、このようなことを言いました。

 

「今日は、喉の調子が悪く、こんなステージを観せてしまい、本当に申し訳ありません。みなさん、今日のチケットを、無くさず、持っていてくれませんか?

もう、一度、やり直しさせてください。」

 

その言葉を、オーディエンスは温かく迎えてくれました。そして、時間は流れましたが、マリンメッセとのスケジュールがつかないのです。年を跨いでは、意味がないと考えていたからです。年内中にやらせてもらいたいと、強く申し出ました。そして、やっと1日だけスケジュールが合いそうだという返事がきました。使用させてもらえそうな日が出てきたのです。11月23日。ホッと胸を撫で下ろしましたが、大きな問題にぶつかりました。そのシンフォニーコンサートは、地元の交響楽団と行ういという、特別なものでした。九州交響楽団です。11月23日は、すでにスケジュールが入っており、残念ながら、その日は無理だという回答がきたのです。

 

再公演は打ち出しておりますし、今更、やれないではすみません。再公演を見届けようとしてくださっているオーディエンスも少なくないはずです。そのくらいの、拍手、歓声を浴びましたから。しかし、交響楽団とのスケジュールが合わない。年明けなら、大丈夫だと言ってくださったのですが、年内でなければならないという気持ちに包まれていました。物理的な問題で板挟みになっていました。その時です。朗報が入って来ました。大阪でご一緒した「大阪シンフォニカー交響楽団」が、その日に、小倉に来ていると言うのです。小倉から福岡まで、新幹線で30分とかかりません。そしてその日は、偶々空き日だということが分かりました。事情を説明すると、

 

「喜んでやらせていただきます」

 

感謝しきれない気持ちになりました。駆けつけてくれました。先日の大阪公演で、すでに曲は覚えてくれていましたので、リハーサルは、重要な約束事のある箇所、フレーズを確かめ合う程度で終わりました。

 

再公演は、とても満足なステージとなりました。あの時、お付き合いしてくださったお客さん、そして大阪シンフォニカー交響楽団のみなさんに、心よりお礼を申し上げます。

ASKA

ごめんなさい

ブログ、書けません。

今、オリンピックの開会式に夢中です。

たくさんの国の選手が「パキラの木」を、持って入場してますね。

 

今、調べたら、ブラジルの木なんですね。

そうだったんだ・・。

 

ASKA

インプラント

今、歯医者から戻りました。前歯の差し歯がぐらついてきましたので、慌てて行って参りました。僕は、数本インプラントをしております。

 

「君は、歯があまり強くないけど、顎が実にしっかりしているので、これはもうインプラントをやるしかないだろう。」

 

初めてのインプラント手術のときです。僕は、注射が苦手なので、針が顔に迫ってきたときにはドキドキしました。そうして、麻酔が効いてきたとき、ドクターが白ずくめでやって来ました。これまで、怪我や骨折は何度もありましたが、手術と呼ばれるものは初めての経験でした。自分で緊張をほぐさねばと思ったのでしょうね。

 

「では、これより、インプラント手術を行います。」

 

両手に白いゴム手袋をした医者が、手を90度の角度で持ち上げています。心臓は激しく打ってます。

 

「き、緊張を・・。何とかしなければ・・。」

 

3人に囲まれました。

 

「では、お名前を言ってください。」

 

とっさに出た言葉は、

 

明石家さんまです。」

 

無反応で、手術は始まりました。

住所は聞かれませんでした。

 

ASKA

 

シンフォニックコンサート

2008年にアジアツアーをやりました。シンフォニックコンサートです。40名以上の演奏家を背景に歌うのです。

 

「そろそろ、アジアツアーをやりたいな。」

 

この一言が、切っ掛けでした。普段のコンサートではなく、ボーカルを全面的に押し出したコンサートをやりたくなったのです。各国のオーケストラとコラボをするというアイデアを出しました。それを伝えると、直ぐに返事は来ました。シンガポール、上海、タイ、香港、ベトナム、台湾、もちろん日本。しかし、ベトナム、台湾は、どうしてもスケジュールの都合がつかず、見送りとなりましたが、最後まで熱意を表してくれました。どの国の演奏家たちも、幼少の頃から、英才教育を受けてきた方たちなので、問題はないだろうと考えました。コンダクター(指揮)は、藤原いくろう氏に決まりました。アジアではいろんな賞を獲ってきた人物です。彼はクラシック畑の人間ですが、ポップスにも理解があり、僕の音楽も分析してくれておりました。彼は、今尚、ロシア公演を勧めてくれております。いつか、実現できればいいですね。

 

そのコンサートは日本を離れ、4月のシンガポールから始まることになったのです。シンガポールは若い国でもありますし、力量が読めないため、藤原氏と、ステージプランナーの大久保が、僕より2日早く、シンガポールに行くこととなったのです。

 

そこは、木の香りがする新しい、そして広いスタジオでした。僕は、演奏家たちに自己紹介を兼ね、マイクに向かおうとしました。その時、藤原氏、大久保に手を引かれ、スタジオの隅に連れて行かれたのです。複雑な顔をしています。

 

「どうした?何かあった?」

ASKAさん、ダメかもしれません・・。」

「なにが?」

 

藤原氏が言う

 

「2日間、やってみたんですけど、譜面に追いつかないですし、まったくバラバラなんです・・。」

 

日本でやったシンフォニーのリハーサルは2日間でした。1日目で行われた演奏は、初見でも、もう素晴らしかったのです。

 

演奏者たちを見渡すと、確かに若い方たちばかりで、そんな話をしている間も、譜面に向かってやっきに演奏しています。余裕が感じられませんでした。

 

僕は、マイクの前に立ちました。

 

「こんにちは。ASKAです。今回は、皆さんと同じステージ立てることを、大変光栄に思っています。一緒に幸せな時間を過ごしましょう。」

 

そして、最後に言いました。

 

「Let’s cross that bridge when you come to it! 」

(不安にならなくてもいいよ。何とかなる。そのときゃ、そのときだ!)

 

残されているのは2日間です。一日、2回まわしのリハーサルでした。1曲を2回ずつ演奏しますので、40回ほど歌うことになります。その日の1曲目は、何の曲だったか覚えていませんが、確かにイントロから、藤原氏の言うバラバラな状態がくみ取れました。歌い出しのタイミングが分からないのです。日本のオーケストラに慣れていた僕には、衝撃的でした。ただでさえずれている演奏に、歌を合わせては、双方がずれていきます。僕は、演奏の柱になろうと考えました。歌でリードしようと思ったのです。藤原氏は、横で懸命にタクトを振っています。僕には、デビュー当時からのスタイルがありまして、リハーサルと本番に区別のない歌を歌います。歌うたいが本気ならば、演奏者も本気になるからです。時間を追うごとに、少しずつ纏まっていきます。

 

「オーケー、その調子。イイよ、イイ!」

 

演奏者の顔がほころびます。皆、一生懸命でした。休憩の時間も楽器を離そうとしません。一体になることを願っているのでしょう。自分の実力を、皆、気づいているのです。その日の、リハーサルが終わりました。

 

帰りしなに、ストリングスの女性たちが寄って来ました。

 

「ありがとうございます。リハサールでこんなに真剣に歌を歌うシンガーは初めてです。頑張ります。」

 

涙を溜めています。胸が熱くなりました。

 

「非常感謝。謝謝。(フェイチャン、ガンシエ。シェイシェイ。)」

(こちらこそ、どうもありがとう。)

 

そして、もう一度言いました。

 

「Let’s cross that bridge when you come to it.だよ。」

 

強く手を握って来ます。僕は、たまらなくなって彼女を抱き寄せました。

 

翌日、リハーサルは1時からでした。少し早めに到着したのですが、彼、彼女たちは、もっと早くから、スタジオに到着しており、すでに練習をしておりました。

 

「おはよう!今日も楽しもうね!」

 

そして、リハーサルは開始されました。違うのです。昨日、あれほど乱れていた演奏が、纏まりを見せ始めているのです。その日も、同じように渾身を込めて歌いました。打楽器にも強弱がつきました。

 

「イイよ!最高だよ!」

 

表情が、どんどん変化していきます。しかし、それでも、実力には限りがあります。もう、ここを良しと受け止めてリハーサルは終わりましたが、皆、帰る気配がありません。僕は、帰れなくなり、その後30分ほど、みんなの練習を見ていました。

 

そして、本番当日を迎えました。皆、フォーマル衣装で楽屋の廊下に溢れています。素敵でした。顔には自信さえ伺えます。本番の開始は、ステージセットの障害で、30程遅れてとなりました。

 

本番ですか?それはもう、情熱でいっぱいでしたよ。あの、初日のリハーサルが嘘のようです。熱意に応え合うようにステージは進んでいきました。些細なミスはありましたが、全く気にならない程度です。僕の、歌詞間違いからすれば、うんでいの差です。皆、1曲、1曲に魂を込め演奏してくれました。

 

終了後、40人がひとりひとりが、楽屋を尋ねてくれて、みんなとハグし合い、記念の写真を撮りました。

 

その後、バンコク、上海、日本、香港と続きました。各国、素晴らしい演奏をしてくれました。もちろん、各国の演奏を録音したのですが、iTunesからの配信音源は、あの情熱に応えてシンガポールに決めました。

 

音楽は世界を繋ぐ。心からそう思っています。ロシアでも行いたいものです。いつか、実現するでしょう。その時は、みなさん、お待ちしています。

ASKA

 

 

 

 

評価

今ね、自分の手を眺めていて、ふと見つけたものがありました。右手の中指のホクロが薄くなって、ほとんど見えなくなっていました。子供の頃から、目印のようにあったホクロなのに。年を取ると、ホクロが増えて行くということに、逆行しているなぁと。わりと気に入ってたんです。どちらにせよ、身体は少しずつ変化していってます。心も同じなのでしょう。変化するということは、自然なことです。変化は、受け入れなくてはなりません。それでも、無くしてならないものがあります。気力です。元、読売ジャイアンツ4番バッター王さんから頂いた言葉です。

 

ASKA君、気力」

 

本当に、そうだなぁと。どんなピンチを迎えても、最後に残るものは、気力なんだと。王さんは、何歳の時に、この気力に気がついたのでしょう。運動選手には、必ずスランプというものがあります。僕の持論なのですが、身体はミクロの単位で、毎日変化をしています。そのミクロな変化に、身体を、または自分のフォームを合わせていくことは不可能です。前日までは、上手くいっていたのに、一日を境にして上手くいかなくなる。実は、一日ではないのです。ミクロの変化が、ある日とうとうラインを超えた日から、上手くいかなくなるという現象が、スランプと呼ばれ始める日の始まりではないかと考えるのです。

 

スランプからの脱出に「基本に戻れ」「元のフォームに戻れ」という教えがありますが、それは違うと思うのです。上手くいかせるためには、ミクロで変化し続けている身体に合ったフォームを探さなければならないと、思っています。

それを、見つけたときにゾーンに入ります。ゾーンはしばらく続きますが、自分の意識していないところで、絶えず変化は起こっています。そして、またある日、スランプに陥ります。このゾーンの状態を、少しでも長く維持するためには、日々の怠らない練習だと思っているのです。大リーグのイチローの凄さは、そこに集約されているのだと思っています。僕も、自分のゾーンを長くしたい。それは、日々言葉と向き合う。メロディを浮かべる。形にならなくても良いのです。その時に合った、またはその年齢に合った作品を紡ぎ出してゆく。

 

結果は現象です。やはりプロフェッショナルである以上、結果は気にしなくてはなりません。事実ですから。しかし、評価は人々の胸の中で様々な顔を見せます。今の僕は、評価の方が大切でしょう。評価は、ミクロに変化しながら、ある日、例えば影響力を持つ人の発言で、あるラインを超えます。それに、影響された人々を大衆と呼びます。大衆はブームに乗りやすい。ブームには必ず終わりがあります。大衆は次のブームの尻尾を追いかけます。今、僕の音楽を聴いてくれている方たちは、大衆ではない方たちです。評価をしていてくれている人たちなのだと思っています。その評価に応えるための音楽を目指しています。

 

「自分の音楽を探究する」

 

強い言葉ではありますが、評価を無視した音楽作りだけは、してはならないと思っています。少しでも長くゾーンでいたいという想いが、僕の音楽の根幹です。そこに魂を宿らせようと思っています。

 

今日も、一日どうもありがとう。

おやすむね。

C-46

そこは、フレンチレストランでした。目の前には、漫画家の巨匠、弘兼憲史さんがいました。この方の漫画は、もう漫画の領域を超えて、小説だと思っています。小説を絵で表している方なのだと思っています。誤解をされては困りますが、小説家の方が漫画家の方より勝っていると言う意味ではありません。僕が弘兼さんに抱いている感覚です。弘兼さんの描くストリーは、どれも素晴らしく、まるで一冊の本を読んだような気持ちで、心が満たされてしまうのです。それまで、何度もお話をさせて頂きましたが、食事をご一緒するのは初めてでした。人の気持ちを、素早く、そして深く読み取れる方のだという瞬間がありました。僕は、一瞬にして弘兼さんに惹かれました。弘兼さんは、僕の歌も知って下さっていて、「歌を作る」「漫画を描く」という、お互いの作品、立場を語り合いました。食事も終わる頃、僕はこう思ったのです。伝えました。

 

「弘兼さん、僕の歌を弘兼さんの作品のひとつに加えていただけませんか?」

 

僕は、僕の体験談から「C-46」の話をしました。

 

「良い話ですねぇ。描きましょう。」

 

こういう経緯で「C-46」は、弘兼さんの「黄昏流星群」の一遍に加わりました。どんな作品になるのか、毎日が楽しみでした。そして、2週間後、ふと思ったのです。あの曲をハッピーエンドにしたいと。思ったら、直ぐ行動。僕は、弘兼さんに電話を入れました。

 

「弘兼さん、作品の具合はどうですか?」

「もう、描き上げて編集者に送りましたよ。」

「ああ・・。そうですか・・?」

「どうしました?」

「いえ、ちょっと思いついたことがありまして・・。」

「何でしょう?」

「あの登場人物の最後を、ハッピーエンドにしたいんです。」

「もう、間に合わないですねぇ。来週掲載されますからねぇ。」

「わかりました。とても楽しみにしております。ありがとうございました。」

 

「C-46」は、愛し合い、そして別れたふたりが一緒に過ごした部屋を懐かしむという歌です。

 

別れたふたりは、その若き日の恋愛を胸に抱き、年を取ります。あ互いの人生が幸せであることを願いながら。主人公の男は、ふたりが暮らした、そのマンションの前を通る度に、その部屋を見上げてしまいます。男は、妻を亡くしました。妻を心から愛していました。それでも、若き日のあの楽しかった恋愛を思い出すことがありました。年を取り、お金もそれなりにあります。男は思いました。いつも見上げていたあの部屋に、もう一度住んでみたいと。ふたりが住んでいた頃の部屋の窓は、ブラインドでした。見上げ続けていた部屋の窓は、何十年もの間に何度もカーテンのデザインが変わりました。いろんな人が、あの部屋で過ごし、そして、引っ越していったのでしょう。人間模様が繰り返されたのでしょう。そして、ある日、その部屋の窓はブラインドに変わりました。

偶然でしょう、あの頃、ふたりが暮らした薄いブルーのブラインドでした。想い出します。その住人が引っ越すのを待とうと考えました。それから、2年の月日が流れました。想い出します。フローリングの床、まるでプラットホームのような長四角の部屋、彼女の少し外れて歌う鼻歌。角の丸いテーブル、一緒に買った座り心地の良いソファ・・。今、住んでいる住人が引っ越しをしたら、その頃と同じような家具の配置にしてみたいと。男は、待ちましたが、引っ越しの気配はありません。男は、その住人に交渉してみたいと考えました。マンションのオーナーを尋ねて行きます。オーナーは、男のことを覚えていました。

 

「あの部屋を、譲っていただけませんか?賃貸しではなく、買いたいのです。」

 

オーナーは、言いました。

 

「今、住んである方も、あの部屋をとても気に入ってくれています。どうですか?直接、交渉をされてみてはいかがですか?」

 

数日後、その部屋のブラインドの隙間から明かりが見えました。その部屋に、人が居ることを確認できました。男は、勇気を出します。細い階段を上がりました。部屋のドアの上には「201号」と描かれたパネルがありました。懐かしいパネルです。こんな夜に、突然チャイムを鳴らされたら、住人は驚くでしょう。迷いました。ドアの前には、ひとりの老人の葛藤がありました。指先にインターホンが触れます。男は、ついにそれを押してしまったのです。ドア越しに「はい!」という声が聞こえます。住人は女性でした。どう説明すれば、この部屋を譲ってくれるのでしょう。

 

「突然、もうしわけありません。」

「どなたですか?」

 

ドア越しでの会話となりました。そして、ドアは開けられました。出てきた住人は、老女でした。若き日に愛し合った彼女だったのです。ふたりは言葉なく、涙だけが溢れ合いました。

ASKA