フレディ・マーキュリー

今日は、心温まるお話です。

 

僕らは、アルバム「SEE YA」からロンドンと密接になりました。スタジオに入って、最初に驚いたのはスピーカーから流れてくる音が、まるっきり違うということでした。骨太で、また繊細なのです。そして、スタジオで使われている機材が、古いということでした。ヴィンテージと言えば聞こえは良いのですが、最新の機材が揃えてある日本のスタジオで録音してきた僕らにとって、カルチャーショックでした。日本のスタジオは、どこも真新しさを強調していましたが、ロンドンのスタジオはどこも古い倉庫の一室のようでした。ロンドンのレコーディングスタートは早いのです。日本では、だいたい午後1時ぐらいに集合して、朝方までやりますが、ロンドンは午前10時ぐらいから始まって、夜は、天辺(24時)には終わります。僕らは、エンジニア、ミュージシャンに日本のスタイルを要求し、朝方までスタジオに篭もりました。みんな気持ちよく付き合ってくれました。一度、朝7時くらいまで作業がつづいたことがありまして、スタジオマネージャーからこっぴどく怒られた想い出があります。

 

「うちのスタッフを殺すきですか?そんな朝まで仕事をさせていたら、まず、エンジニアの耳が死んでしまいます。」

 

その後は、早く終了するように心がけました。それでも、3時、4時になることは多かったですけどね。

 

話は戻りますが、そんなスタジオですが、あの音の鳴りはなんでしょう?僕は、家で、デモトラックを制作していました。その現象は家でも同じでした。音が違うのです。僕は、日本から機材を持って行きましたので、音が違うということはありえないのですが、聴感はとてもふくよかな音に聴こえました。湿度でしょうか?何度となくその音の違いを話題にしていましたが、行き着くところは「電圧の違いだろう」ということになりました。 日本の電圧は100Vですが、イギリスは220V~240Vです。この電圧の違いが、音を骨太に、ふくよかにさせているのではないかということでした。それでも、そうではないでしょう。日本のスタジオもイギリスに見習って、電圧を上げているスタジオは、多く存在しますが、あの音を再現することはできません。未だに解明できておりません。

 

そんなこともあり、海外録音をするミュージシャンは後を絶ちません。最近は少なくなったように見受けられますが、またいつかロンドンレコーディングをやってみたいと思っています。

 

アルバム「Guys」を制作していた時の話です。そのスタジオは1st. 2st.と、ふたつのスタジオがありました。1st.は広く、ボーカルブースは、石で囲まれており、天井も高いので、声の鳴りも良く、歌入れをするには最適の部屋でした。

僕らは、好んでその部屋を使いました。ある日のことです。スタジオに足を運んだら、「今日は、2st.を使ってくれ」と言うのです。事情があって、今日は貸せないとのことでしたで、その日は、2st.を使用することになりました。それでも、歌入れは順調に進んで行きました。途中、トイレに向かうために、1st.の前を通り過ぎたときに、そのスタジオを覗いてみたのです。誰もいません。トラブルが発生しているならば、リペアマンが居るでしょう。シーンとしています。気になった僕は、スタジオエンジニアに尋ねました。

 

「今日、1st.は、なぜ使えないの?」

 

エンジニアは言いました。

 

「今日は、朝からフレディが来てるので貸せないんだ。」

「フレディって?」

フレディ・マーキュリーだよ。」

 

フレディ・マーキュリーとは「QUEEN」のボーカリストです。1991年に亡くなっています。

 

「どういうこと?」

「死ぬ前に、書きかけの曲があったようで、時々1st.に来てるんだよ。」

 

そのスタジオは、フレディのお気に入りのスタジオだったということでした。朝からピアノの音が鳴り出したので、フレディのためにスタジオをクローズしたとのことでした。スタジオのみんなが、その場面に遭遇しており、歌声も聞こえるとのことでした。話を聞きながら、怖いとは思いませんでした。愛おしく感じたのです。スタジオは利益を優先せず、フレディのために僕らをキャンセルしたのです。僕らですか?胸が熱くなりましたね。

 

フレディ・マーキュリーは、イギリスが生んだ大天才のミュージシャンです。僕も、アルバム全てを持っています。死んで尚、音楽への情熱はつづいていたのです。その話を聞かされてから、彼の音楽がいっそう好きになりました。

 

人柄も素晴らしく、誰からも愛されていたそうです。フレディが曲を書いているところを、見たかったなぁという思いです。

フレディ、あなたの隣でレコーディングできたことは、一生忘れませんよ。

ASKA

これだけは伝えておかなくてはと。

みなさんは、僕が英語を喋れると思われているようですが、僕は喋れません。

ロンドンに住んでるとき、やはり少しは喋られるようにならなくてはと思い、

NHK 英会話」のテキストを、朝からずっと眺めていた程度の英語です。

 

スポーツ紙が「英語に堪能」と書いたときには、どう説明しようかと悩みました。

 

僕の英語は、非常にブロークンです。

日常生活に困らないという程度です。

カミングアウトしておきます。

相手が理解してくれるので、伝わるだけです。

英字新聞など、とんでもない。

ありがとうございました。

ASKA

"Guys"ですが、

ロンドンのスタジオで話題になったのです。

その時、エンジニア連中が、答えをくれました。

例えば、"The Band"は数人で構成されても"Band"です。

もちろん、"Bands"が正解なのでしょうが。

 

僕ら"CHAGE&ASKA"はふたりですが、"Band"と捉えて、

"Call me"

そして、更に"Guys"と呼ぶ。「これはキャッチ(フック)になる」とのことで、敢えて"Guys"にしようということになりました。

英文的には、確かに間違っていますが、それをキャッチにしようという、イギリス人の発想からそうなりました。

 

最初は"Call us guys"だったんです。

興味を示してくれて、ありがとう。

ASKA

 

 

星占い

 

星占い

 

 

毎日の生活は

星よって導かれているのかもしれません

 

星占いは5千年の歴史といいますが

星は気の遠くなるほど昔から輝いていました

 

この星は絶えず回っていますから

生まれた時の星の位置で

その人に運命が与えられます

 

「星の下で生まれた」

という言葉はそこからきています

 

では

同じ日に生まれた人は同じ運命をたどるのでしょうか

人間ひとりひとりの指紋が違うように

ミクロの単位で同時刻に生まれた人はいないでしょう

 

わずかなズレで運命を背負っているはずです

わずかなズレは放射線の広がりのようになり

やがて別のものとなってゆきます

つまり別の人生が用意されているということです

 

太陽系には8個の惑星があります

僕は

「いまに新惑星が発見されて12個になるのだ」

と語ってきました

その考えはいまも変わりません

 

星占いは大きく12個に分けられていますので

太陽系の惑星が12個である必要があるのです

 

今日、今週、今月、今年

そのとき出会った星占いによって運命が告げられます

そのとき占いにアクセスした人にだけ星は教えてくれます

 

見ない人にとっては当たっていないのです

最初からそういうものはないのです

 

それを

出会いと言います

運命と言います

 

僕は今週

「火星と海王星が敵対的な角度を形成すると言われました」

「自分自身をもっと真剣に受け止めるよう言われました」

 

この星の下に生まれた以上

そこは避けては通れないのだと思います

 

あなたの星は

今週あなたに何を教えてくれていますか

 

 

納豆と豆腐

今、目の前に

「納豆」と「豆腐」があります。

「豆を納める」と「豆が腐る」

????????

これ、どこかで入れ替わってますよね?

豆を納めるのが「納豆」でしょ。

豆が腐るのが「豆腐」でしょ。

日本語の歴史の中、呼び名がどこかで入れ替わってますよね。

日本不思議発見でした。

ASKA

記憶

みなさんは、出会い、縁、不思議な話がお好きなようですね。みなさんが、仰るように、僕にはそういう体験が、山ほどあります。では、もうひとつだけ、そんな話をしますね。

 

これも、10年ほど前のことです。出会いは、あるパーティでした。その女性は30代半ばの、とても品のある素敵な女性でした。そのパーティが1時間ほどした時、その女性と隣り合わせになったのです。話は普通に進んで行きました。そして、話の最中に「あれ?」っと、思ったのです。

 

「ね、以前一度どこかでお会いしていますよね?」

「いえ、初めてですよ。」

「そうですか・・。そんな気がしちゃって。」

 

その女性は、日本の伝統文化、作法を教える職業の方でした。

 

それから、数ヶ月後、一緒に相撲観戦に行くことになったのです。相撲の枡席は、4人用なのですが、大人4人です。あれは狭すぎますね。僕は、前に座り、その女性は僕の斜め後ろに座ることになりました。野球とは違って、相撲は、売り子さんなどがいません。その変わり、予め弁当などがついているのです。

照明に照らされた力士の身体は、美しく、観戦を楽しんでいました。その女性に背中から声をかけられましたので、振り返りました。たわいもない話です。

その時、彼女が真っすぐ僕の目を見てくれた時に、またもや、思ったのです。

 

「あれ?やっぱり以前にお会いしてますよ。」

「そうですか?そんなことないですよ。」

「おっかしいなぁ・・。似てるとか、そういうことではなくて、覚えてるんですけどねぇ・・。」

「誰にも、そんなこと仰ってるんでしょ?」

「ええ。まぁそういうところはありますけど(笑)」

 

僕には、何というか分かりませんが、一度会うと、その人の顔を忘れないという特技があるのです。子供の頃からそうでした。もし、僕に病気があるとするならば、これが病気なのだと思っています。デビューの頃、全国を回りましたが、ラジオ局、取材をしてくれた方、プロモーターの方などの顔が、脳にすり込まれていますので、二度目にお会いした時には、

 

「お久しぶりです。お元気でしたか?」

「覚えていますか?」

「もちろん。○○の話もおぼえていますよ。」

 

相手も、覚えられていたということで、喜んでくれ、直ぐに応援、仲間となってくださいました。

 

その女性と、再びパーティでお会いした時です。話の最中に、とても印象に残る笑顔をされたのです。

 

「ちょっと待って。何度もすみません。絶対に以前お会いしてますよ。」

「そうですかぁ?」

「はい。今の笑顔。間違いはありません。」

 

彼女は、ためらいながら言いました。

 

「はい。実は、一度だけお会いしたというか、すれ違い程度なので、まさかと思って、そう言って来たんです。」

 

一気に、記憶をめくったのですが、それがどこでどんな出会いだったのかが思い出せませんでした。

 

「どこで、お会いしましたっけ?」

「いえ、いえ、ありえませんから。そう言っていただいただけでも光栄です。」

「本当に、覚えてるんです。」

「そうですかぁ?」

「はい。覚えています。」

「今の、笑顔と、同じ笑顔をされました。どこですか?」

「イタリアです。」

 

僕は、ロンドンに住んでいる頃。家族でイタリア旅行をしたことがありました。

そして、記憶は現れました。

 

「あっ!あの時の新婚さんだ!コロシアムの前で、僕に気づかれて、ニコっとされましたよね?」

「だって、一瞬ですよ。」

「僕は、あなたにお辞儀をしたじゃないですか。しっかり、覚えてますよ。」

「それが、本当だとしたら、ものすごい記憶でいらっしゃいますね。」

 

コロシアムの入り口で、新婚さんと思われるカップルが、30メートル程の距離から、僕を見つめていましたので、それに気がついた僕は、笑顔でお辞儀をしたことがあったのです。僕は、人の顔を覚えるとき、目を見ます。もちろん、全ての人の顔を覚えるわけではありませんが、印象に残った人の顔、目は忘れません。写真のようにインプットされるのです。人生において、再び出会うことになる人だけなのかもしれません。

ASKA

ニール・コンティ

MTVアンプラグド。「楽しかったか?」。手放しで、楽しかったとは言えません。あの1時間20分は、ただ必死でした。「700番」にも書きましたが、世界的なアーティストが、ライブの不出来で、放送中止になったことが、頭から離れない中でのライブだったからです。このブログでは「縁」や「不思議なできごと」がいくつか登場しましたが、この話もその手のものです。

 

アンプラグドのリハーサルは、毎日しつこいくらい行いました。外国人ミュージシャンは、その気迫が伝わったのか、毎日僕たちに付き合ってくれました。

 

ドラムのニール・コンティの話をします。彼は、当時、ヨーロッパを席巻した「プリファブ・スプラウト」のメンバーでした。ピアノのジェス・ベイリーが声をかけ、口説き落として、このセッションに参加してくれたのです。スネアの音色、彼独特のグルーブが売りでした。彼は、スタジオミュージシャンとしての毎日を送っていたのですが、親友のジェスに付き合ってあげるという気持ちでのアンプラグドセッションとなったのです。日本のミュージシャンのサポートには、きっと興味はなかったのでしょう。初日のリハーサルでは、その音色、テクニックに魅了されたのです。しかし、数日間、どこか納得のできないプレイをしました。言葉は悪いですが、上から目線なのです。要求を聞きません。同じ曲を、何度もやることに真摯な態度が見受けられませんでした。

 

「OK!」

 

とは、言うものの、僕らに寄り添ってこないのです。リハーサルにもいちばん最後に現れ、終わるとカットアウトのような帰り方をしました。それでも、音の鳴りはさすがでした。腫れ物に触るような存在でしたが、それでも彼とやれるという喜びでリハーサルは行われました。集められたミュージシャンは、ロンドンのトップクラスのメンバーです。他のメンバーは、僕らに敬意を払ってくれましたが、ニールだけはそうではありませんでした。1曲、1曲の完成度は高かったのですが、途中から思うことがありました。歌いづらいのです。ボーカルが伸び伸びとできないのです。サウンドに気を遣いながら、やっと歌っているという状態でした。毎日が不完全燃焼でした。僕は、歌を歌うとき、歌を揺らします。

この瞬間は、溜めて歌ったり、または突っ込んで歌ったりと、様々に変化させながら歌います。それが、どうしてもできないのです。僕の歌が歌えないのです。

エモーショナルな表現ができません。安全に言葉を置きにゆくという歌い方になってしまいます。歌い終わった後に満足が残らないのです。1週間を過ぎた辺りで、それが何故なのかに気がつきました。ニールです。ドラムです。彼はプロ中のプロです。ニールの叩く鳴りは最高なのですが、ひとつひとつの楽曲のキャラクターを無視して、叩いてることに気がつきました。プライドの高いニールに、どう伝えようかと悩みました。ニールの持ち味はグルーブなのですが、そのグルーブが邪魔しているのです。揺らしながら叩くのは、楽曲に味をつけますが、揺らしすぎるとリズムはリズムではなくなり、ずれているだけのものになります。僕は縦の線がしっかりしたドラムを好みます。その縦の線をかいくぐるように歌を表現いたします。ドラムが揺れていては、それができないのです。日本のミュージシャンをバカにしてるとは言いませんが、「こんなもんだろう」という、彼の演奏に我慢ができなくなりました。ジェスを介して伝えてもらうのが最善だったのでしょうが、とうとうリハーサルの途中で歌を歌うことを止めました。僕が、途中で歌を止めることは、それまでなかったことなので、みんな驚いて、演奏が止まりました。

 

「どうしたの!?」

 

ジェスが言います。

 

「ごめん。もう一回最初からやろう。」

 

そして、もう一度イントロから始めました。気を取り直して歌ってはみたものの、やっぱり歌えません。また、途中で歌うのを止めました。スタジオの空気が変わります。ジェスが駆け寄って来ます。少しの間考えましたが、上から目線のプレイに、もうこれ以上気は使えないと。僕は、振り返りました。

 

「ニール。リズムが悪い!歌が歌えない。集中して欲しい。」

 

これまでの音楽生活の中で、こんなことを言ったのは初めてのことでした。

ニールの表情が変わりました。

 

「集中してるよ。」

「ニールの音は大好きだけど、揺れすぎて歌えないんだ。」

 

周りのミュージシャンは黙ったままでした。ジェスがニールのもとへ駆け寄り、小声で何かを喋っています。聞こえませんでしたが、僕の説明を柔らかく伝えているのでしょう。そして、ニールが僕に言いました。

 

ASKA、もう一度最初からやらせて。」

 

実は、ニールは他のミュージシャンからも同じようなことを言われていたのです。それを見抜かれてハッとしたのでしょう。その後のプレイは変わりました。

とてもタイトに、そしてニール独特のグルーブが加わった演奏になりました。

立場関係が変わったのです。翌日からのニールは、とても紳士的になりました。

 

休憩中も僕らに交わるようになりました。日本のミュージシャンへの偏見がとれたのです。アンプラグドライブ本番でのニールの演奏は素晴らしかったですね。その後、ニールは日本での僕らのアルバムにも参加してくれました。ハイハットを叩く腕の柔らかさ、腕のしなりなど芸術的でした。最高のドラマーです。

 

それから、数年後。ある日、僕はASKAバンドの連中と六本木の外人クラブに居ました。前に紹介したママさんの店です。メンバーと、あの時のニールとのやり取りを話していました。悪口ではなく、ミュージシャンが力量を発揮したときの演奏は凄いという話で盛り上がりました。

 

明け方、5時頃に店を出ました。外は、もうすっかり明るくなっていました。僕は、お酒を呑んでいませんでしたので、駐車場に向かおうとしたときでした。外国人がひとりで歩いてきたのです。六本木は溢れるほど外国人が居ますので、珍しい光景ではありません。すれ違いざまに「ハーイ」と、声をかけました。外国人も「ハーイ」と返してきました。何気に目が合ったのです。もう、ビックリしたのなんのって・・。

外国人はニールだったのです。

 

「ニール!!」

「ワオ!ASKA!!」

「何で、日本に居るの?」

「ライブで来てるんだよ。」

「信じられない!」

「実は、今日一日中、日本のレコード会社のスタッフに、ASKAと連絡は取れないか?と、言ってたんだよ。でも、みんなASKAは知ってるけど、連絡先は分からないと言われてさ。」

 

こんなことってあります?店を出るのが、10秒遅かったら、ニールとは遭遇してないわけですから。僕らは抱き合いました。

 

「ニール、これらどうするの?」

「良い店はないかと探してたんだ。」

 

もう、明け方です。多くの店は閉まってます。それでも、こんなハプニングで高揚した僕は、ニールをどこかに連れて行ってあげたくなりました。探しましたねぇ。1時間ほど探したでしょうか。もう、ビジネスマンが、歩き始めていました。僕たちは六本木の交差点まで戻り、客引きのひとりを見つけました。

 

「この時間に空いてる店はない?」

「早朝から、やってる店が一軒あるよ。」

 

教えられた店は、直ぐ近くのビル内にありました。もう、どこでもよかったんです。2時間ほど盛り上がったでしょうか。あれ以来、ニールとは会っていませんが、今も、ヨーロッパを股にかけて、プレイしていることでしょう。ホント、こんなことってあります?

あ、その店ですか?

「早朝キャバクラ」と、書いてありました。

ASKA

 

 

 

 

 

 

こんな時間になっちゃった・・。寝直します。

先ほど、ふと目が覚めて、みなさんのコメントを読んでいました。

 

「有名人だから、調べられる。」

 

これは、ちょっと違います。「アガスティアの葉」を持ちかけてくれた知人も有名人で、僕も同じようなことを、知人に言ったのです。その知人は、行く前日に僕のところに電話をかけてくれました。どこか、引っかかるから僕に相談の電話をかけてきたのです。知人はコーディネーターと話したときに、自分の身分を明かさなかったと言います。コーディネーターは、知人がそこを訪れた時に、驚いたのだそうです。もちろん、インド人は、その知人のことを知りません。

その夜です。電話がありました。

 

ASKAさん、アガスティアは本当だわ。」

「どうだった?」

「私の両親の名前は、日本人でも珍しくて、これまでプロフィールでも一切証してきていないので、調べられることはできないの。アガスティアで私が役者だと分かった瞬間に、写真とかお願いされちゃった。」

「コーディネーターが、伝えたんじゃない?」

「その人は、直ぐに私だと分かったけど、相手(ヒーラー)には何も喋らなかったから。その人(ヒーラー)が、奥の部屋に入るまで、ずっと一緒に居たんだよ。だから、何も伝えてないのは、私が知ってる。」

「そうか。オレの話はした?」

「いえ。行くという返事はもらってないから、何も話してない。でも、行くことになった時のために、予約だけはして来たよ。キャンセルは、当日でも構わないって言われたので。」

 

僕は、飛び込みで行ったのです。コーディネーターが僕だと気づいたのは、僕が音楽をやっているという話が出てきたときです。名前が出てきたときに、迷ったことがありました。

 

「あなたの名前の最初の文字は『A』ですか?」

 

と、言われたときです。『A』でも合っています。僕は、その時『No』と答えました。次の葉に行きました。もし、『ASKA』で、出ていた場合は、僕はその葉を逃したことになります。

 

「『M』ですか?」

「Yes。」

 

しかし、その後の質問で、その葉は僕のものではありませんでした。僕は、迷っていました。どちらの名前で反応してよいものなのか・・。そして、こういう質問が出てきたのです。

 

「あなたは名前をふたつ持っていますか?」

「Yes。」

「ひとつは『M』ですか?」

「Yes。」

「もうひとつは『A』ですか?」

「Yes。」

ASKAですか?」

「Yes。」

 

そして、本名が告げられたのです。そのまま、父や、母。家族の名前が出てきました。

 

なので、事前に調べるという行為、時間は与えていません。「64歳に、あることがある」というのは、『死』では、ありません。それに向かって一生懸命生きれば、そういうことがおきるのかもしれません。僕の中では「あの事かもしれないな」と、いうものがあります。僕の心の中にある大きな目標です。それが、達成されるのでしょうか?今、ここで書きながら、もう一度願ってみようという気持ちになりました。これを思い出すためのブログだったのでしょうか?事件は、僕に課せられた試練だったのでしょうか?いずれにせよ、後、約5年半後のことです。夜中に起きて、みなさんのコメントを読んだことで、その気持ちを思い出しました。

,

本当なのか、トリックなのか、未だに分かりません。

ASKA

アガスティアの葉

 

あれが本当なのか、トリックなのか、未だに謎です。それは「アガスティアの葉」と、言います。3000前とも言われていますし、5000年前とも言われています。その葉には、そこに訪れた人の分だけの葉が用意されており、訪れた人の一生が、その葉に記述されています。訪れない人の葉はありません。なので、そこに訪れる人は3000〜5000年前から決まっていたということになります。

 

僕は、運命論者ではありません。大まかな未来予想図は手渡されて、または描いて生まれてくるのでしょうが、その人の生き方で、別なものに変化してゆくのだと思っています。例えば、机の引き出しの中に、小さな小石を放り込むようなものです。そのまま、じっとしていれば、与えられた人生。しかし、空間は引き出しの大きさの分だけあります。移動するごとに、位置は変わります。

隣の引き出しには移動できません。自分が身を置いた、その引き出しの空間分だけの運命がある。自分の行動によってたどり着く位置が変わると言えば分かりやすいでしょうか。

 

アガスティアの葉」は、南インドのタミル地方一帯の寺院に保管されています。先ほども書きましたが、そこを訪れた人の分だけしか、用意されていません。聖者アガスティアが書いたことから、その葉を「アガスティアの葉」と呼ばれています。以前から興味はあったのですが、インドの奥地まで行く気にはなれませんでした。と、いうことは、僕の葉はないということになります。

 

10年ほど前のことでしょうか。知人から電話があったのです。

 

アガスティアの葉って知ってます?」

「ああ、知ってるよ。」

「行きませんか?」

「いやぁ、インドまでは行けないなぁ。」

「いえ、その葉が日本に来るんですよ。」

 

僧侶が、「アガスティアの葉」の束を抱えて、日本に来るというのです。人が、足を運んで来るのも運命、そして、「アガスティアの葉」が海を越えるのも運命。どちらにしても、出会う人だけが出会うもの。なるほどと思いました。

 

 

そこは、県境にある建物の一室でした。到着後、間もなく部屋におとされました。恰幅の良いインド人の僧侶?ヒーラー?が、目の前に座りました。適切な言葉がないので、その人をヒーラーと呼びましょう。「アガスティアの葉」に書かれている文字は、古代タミル語であるという説明を受けました。それは、知っていました。以前、テレビの番組で、「アガスティアの葉」が放送されていたのを観ていました。古代タミル語を研究されている方が、その葉に書かれた文字を見て「間違いなく、タミル語です」と、説明していた場面を覚えていたのです。

 

まず最初に、ヒーラーから言われたことがありました。

 

「今から、質問をつづけますが、『Yes』か『No』だけで、答えて下さい。」

 

例えば、僕は1958年2月24日生まれですが、ヒーラーが選んだ葉に、それが書いてあります。

 

「1960年生まれですか?」

「No」

「では、次の葉にいたします。」

「1958年生まれですか?」

「Yes」

「5月生まれですか?」

「No」

「では、次の葉にいたします。」

 

こういう風に、自分の葉に間違いないという葉が出てくるまで、延々と繰り返すのです。1時間内に自分の葉と出会す人もいれば、5~6時間かかる人もいる。一日出て来ない人もいる。そういう人は、別の寺院に行くのです。結果、数日、かかる人もいます。しかし、そこに行った人には、必ずあるのです。それが「アガスティアの葉」です。ヒーラーは、言いました。

 

「右手の親指の指紋をとらせてください。」

 

その指紋に近い束ごとに分けられた束を探すのです。男性は右手の親指。女性は左手の親指。指紋をとり終わると、ヒーラーはしばらく奥の部屋に入って行きました。20分程待ったでしょうか。ヒーラーが、大きな束を抱えて戻って来ました。これから何時間かかるのでしょうか?丸一日費やすのでしょうか?その葉は、茶色に変化した、薄い板のようになっていました。僕は、言いました。

 

「信じていないわけではないのですが、この模様を、すべて録音させていただいてもよろしいですか?」

「構いませんよ。」

 

そして、僕の一生が書いてある葉と遭遇する時間が始まりました。

 

「この葉ではないですね。次に行きます。」

 

30分程して、僕の誕生日の書いてある葉が出てきました。ドキドキしましたが、その葉ではありませんでした。

 

「あなたの生まれは、東京ですか?」

「あ・・。Noです。」

「では、次の葉に行きます。」

 

今日、出て来ない場合は、明日も来なくてはなりません。翌日も、スケジュールは空いていましたので、覚悟を決めました。

 

1時間半を過ぎた頃でしょうか?

 

「出生地はFUKUOKAですか?」

「Yes」

「お父さんの名前はKATSUMIですか?」

「・・。Yes。」

「お母さんはE?EKOですか?」

「Yes。EIKOです。」

 

心の中で、思いました。「嘘だろ・・。」ヒーラーは、空に向かって呪文のような歌を歌いながら、突然質問をしてきます。

そして、その葉からは、家族全員の名前が出てきました。

 

「あなたの仕事は、音楽ですか?」

「Yes。」

「はい。この葉が、あなたの葉です。」

 

僕の一生が書いてありました。日本古来の武道をやってること。若い頃に、世の中に名前が出ること・・。

 

「海外で、仕事をやることになります。」

「はい。もうやっています。」

 

ここでは書けない、いろんなことが書いてありました。僕の、一生に沿ったことが書いてありました。直ぐ隣りに座っていたコーディネーターの方から、

 

「こんなに早く、葉が出てくるのは珍しいですよ。ご縁があったんですねぇ。」

 

アガスティアの葉」によれば、僕は64歳までは生きてることが確認できました。その年に、あることがあるのです。良いことも、悪いことも書いてありました。前世が、何という名前であったか。何の仕事をしていたか。どういう経緯で、この世を離れることになったのか。もちろん、今回の事件を思わせるようなことも書いてありました。それでも、歌を歌っていくことが使命のようなことを言われました。希望を失わず、一生懸命に生きれば、この葉に書いてある人生を全うすることができるとのことでした。そして、最後に言われたのです。

 

「あなたが死ぬ日を知りたいですか?」

 

即座に、

 

「No」

 

と、答えました。」

 

この世を離れることを知っての人生を送るようなことはしたくなかったからです。金額は、予想以上に高かったです。伝えられたことは、確実性の高いことでしたが、これが商売になっていることに、些細な抵抗があったのです。

お金を、惜しんだということではありません。なぜ、そんなに費用がかかるのかを知りたかったのです。ヒーラーは答えました。

 

「あなたが前世で犯した過ち。それから、これから起こすであろう過ち。それらの業を浄化させるために、インドの若い修行僧が、あなたの代わりになって、7つの寺院を訪ね、歩き続けます。カルマを落とすのです。その修行僧にとっては、修行。あなたにとっては浄化です。」

 

僕の代わりに、約2ヶ月間歩き続けると言うのです。腑に落ちました。

 

「よろしくお願いいたします。」

 

僕は、運命論者ではありません。しかし、その日までのできごとは克明に書かれておりました。引き出しの箱の中の空間いっぱいに用意された運命のどの位置に向かって進んで行くのか、僕にはわかりません。じっとしていては、与えられた運命。しかし、自分が希望を持って進んで行けば、違うところへ行ける。

つまり、運命は変えられるのだと思っています。

そして、時々思い出すように浮かべています。

アガスティアの葉」は本当なのか、トリックなのか。未だに分かりません。

ASKA

今、墓参りから帰って参りました。

早朝から、出かけておりました。

先祖に手を合わせると、心が落ち着くのはなぜでしょう?

毎回、晴れやかな気持ちになります。

 

どんなことがあっても、先祖は守って下さってる。

そんな、気持ちになるのです。

 

さて、今日は未だに答えの出ない、ある体験話です。

今から、書きに入ります。

ASKA

 

 

剣道 2

「剣道はオリンピックに参加すべきではない」という、現役剣士の話が、よく目につきました。このブログが切っ掛けとなって、世間に物議をかもしたようですね。そうですね・・。日本の武道。相手を敬う精神の表れです。確かに、そうかもしれません。

 

僕は、ロンドンに住んでいるときに、家から、電車で40分かかるところで、剣道をしていました。そこは、教会でした。週に1回、剣士のために、教会が場を提供してくれていたのです。そこは、コンクリートの上に板を打ちつけてありましたので、日本の武道場の、あのしなりのある床とは違っていました。7人ほどの剣士が、自分たちでお金を出し合って、教会を借りていたのです。そこのリーダーは、日本で、5段を取得した人物でした。日本の剣道をイギリスに広めようと頑張っている剣士のひとりでした。テクニック的には、やはり、大きな差がり、皆、日本人の僕が行くと、全員が僕にかかってきます。教会を、道場と捉えておりますので、教会のドアの前では、深々とお辞儀をしてから、道場(教会)に、入って来ます。防具をつける所作、練習前の、黙想。そして「切り返し」「面打ち」そして「地稽古」。残心もしっかりあります。練習が終わると、ひとりひとり、正座をして深々と頭を床につけます。音符が共通語であるように、剣道も共通語だなぁと感じました。

 

ロンドンで、学ばせていただいたことがあります。「打たれることに動じない」と、いうことでした。いかに綺麗な剣道をするかに徹してしました。皆、日本の剣道の美を心がけながら練習に励んでいました。「五輪書(ごりんのしょ)」(宮本武蔵の書いた剣術における兵法書)なども、読破しておりました。日本の剣士で「五輪書」を読み切った剣士はどのくらいいるでしょうか。僕も、手には入れたものの、半分も読めませんでした。そのくらい日本の剣道に魅せられているのです。

 

3年おきに、「剣道世界選手権」が各国持ち回りで行われております。日本剣道の強さは、他国を圧倒しています。世界の剣士は、日本の剣道に目を凝らしています。皆、日本に学びたいのです。優勝戦などの審判は、ほぼ外国人です。公平さを保つためでしょう。それでも、日本剣道が勝利します。これは、ある意味、剣道のオリンピックです。「剣道世界選手権」と、いう名の。

 

世界選手権には参加しているに、オリンピックは拒否するという考えに少々疑問を感じての発言でした。連盟には、もっと、深い考えがおありなのでしょう。若輩の僕には追いつけない何かがあるのでしょう。

 

韓国は、数年前に「剣道の起源は韓国である」と、世界に向けて発信しました。韓国は、日本につづいての剣道大国です。発言権も強まってきています。韓国は、オリンピック種目に剣道を加えることを提言しています。やがて、いつかはそうなるでしょう。そうなった時に、怖いことがあります。物事には淘汰があります。日本の介在しないところで、いつの間にか、国際ルールが生まれてしまうということです。これだけ世界に広まった武道(敢えてスポーツ)です。いつの間にかできあがってしまう国際ルールを食い止めるためにも、日本は、日本剣道を強く世界に向けて発信しなければならないと思っています。オリンピックとなれば、国民はテレビの前で剣道に声援をおくります。世界選手権は、残念ながら、テレビ放送されません。この違いなのだと思っています。韓国剣道の、試合における大げさなアピール、審判への抗議。日本の剣道にはない姿ですが、それが、間違っているとは思いません。韓国剣道で根付いた姿であり、育った剣道だからです。正しいと思ってやっています。しかし、やはり見苦しい。日本古来の剣道を守るためには、剣道の発祥地、日本が世界へ向けて発信し「国際ルールを生ませない」という願いを込めての発言でした。ロンドンの剣士に出会わなければ、この考えはなかったでしょう。オリンピックで、日の丸の上がる光景を日本人として見てみたい。全世界に見て欲しい。ネットや、スポーツ新聞は、僕が連盟に対して要求しているように書きましたが、そうではありません。あくまで、一個人の思いです。ありがとうございました。

ASKA

 

 

リバーサイドホテル

今日は、暑い夏にとっておきの話をします。恐がりの方は、ここで目を逸らして下さい。こんな話も偶にはいいでしょ。

 

あれは、25年ほど前、パンフの写真を撮るために福岡へ戻った時のことです。

その日は、午前中に羽田を出発し、昼過ぎに福岡へ到着いたしました。大きなバッグを抱えていましたので、まず、ホテルにチェックインしようということになったのです。

 

そのホテルは、福岡市博多区中洲のリバーサイドにありました。そのホテルはとてもオシャレな造りをしておりました。内装も、またオシャレが豊かで、エレベーターの中では、宿泊することになる部屋のデザインを思い浮かべていました。昔から、そうなんです。部屋好きなんです。僕の部屋は、エレベーターを出たところから見える廊下を、左に曲がった、いちばん奥の部屋でした。部屋のドアもイケてます。僕は手にした鍵を突っ込み、そして、右に捻り、ドアを開けました。グリーンをベースにした、居心地の良い空間が目の前に広がりました。しかし、足を踏み入れた瞬間に、なぜでしょう?

寒気がしたのです。部屋に流れている空調の風とは、違う風を感じたのです。あまり経験したことのない湿気を感じました。

 

「なんか、気持ち悪いなぁ・・。」

 

それが、その部屋の第一印象でした。インテリアは、どれもオシャレで、好みのタイプだったのですが、居心地が良いとは感じられませんでした。スタッフは、各自、チェックインをしており、30分後にロビーでの待ち合わせとなっていたのですが、僕は、そそくさと部屋を出ましたので、ひとり、ロビーで、みんなが集まるのを待ちました。20分程、ひとりで居たでしょうか。ガラス越しに見える中洲の街は賑わっており、それを眺めていると、先ほどの部屋のことは忘れていました。そして、スタッフが、ひとり、ふたりと集まり、CHAGEも下りてきましたので、早速、撮影開始となりました。日差しが心地良く、カメラマンとも息が合い、その日は、順調な流れで撮影を終えたのです。食事から帰って来たのは、22時半頃だったでしょうか。翌日は、早朝からの撮影です。僕は、部屋に入ると、まずテレビを点けます。シーンとしているのが嫌いなのです。そして、数人の友人に電話をかけた後、シャワーを浴びました。昼に感じたこの部屋の第一印象は忘れていました。0時を回った頃には、ベッドに入りました。直ぐに、眠りについたと思います。そして、それは起こりました。何時頃なのかは分かりません。金縛りに遭ったのです。金縛りは、数えられないほど経験しております。その時に、人が出てくるか、出て来ないかが感覚で分かるのです。その日の金縛りは、人が出てくる種類のものでした。身体は動きません。声も上げられません。その時、突然腹の上に人が乗っかってきたのです。僕は、重たい瞼を必死に開け、それを確認しようとしました。ナイトランプは点けてありましたので、部屋は真っ暗ではなかったのです。開けた目に飛び込んできたのは、坊主頭の男の顔でした。じっと、僕の顔を覗き込んでいます。ただ、じっと・・。僕は、身体を捻り男を振り落とそうとしたのですが、身体が動きません。じっと見つめています。そして、男が口を開いたのです。

博多弁でした。僕に向かって喋りかけてきたのです。

 

「オレくさ・・。オレな。」

 

そこで、一旦言葉が止まりました。「何を伝えようとしてるのだろう・・」僕は、男の目から視線を外しませんでした。その時です。男が大声を上げながら、僕の首を絞めてきたのです。

 

「こうやって、殺されたったい!!」

 

ものすごい力です。僕は動けません。苦しい。男は力を弱めようとしません。

そのまま、気が遠くなって行きました。

 

起きたら、朝でした。カーテンの隙間から日差しが差し込んでいました。直ぐに、昨夜のことを思い出しました。あのまま、気絶してしまったのでしょう。

撮影は2泊3日でしたが、僕が宿泊するのは、1日だけだったのです。2日目は、実家に帰ることになっていましたので。いつも、そうですが、そんなことがあっても、朝を迎えると恐怖はなくなっているのです。そんな話をしても「またか?」と、言われるだけなので、昨夜のできごとは誰にも喋りませんでした。そして、その日の撮影も終わり、僕はひとり実家に戻りました。

 

 

翌日は、少し遅めの撮影開始となっていました。

 

集合場所は、そのホテルのロビーでした。空は快晴でした。写真日和です。撮影は、開始されました。直ぐに気がつきました。スタッフのひとりが言葉少なめなのです。僕たちのギャグについてきません。ずっと考え事をしているようでした。気になった僕は、そのスタッフに声をかけました。

 

「どうした?元気ないじゃん。」

「うん・・。」

「どうした?」

 

いつもは率先して喋ってくるのに、やはり変です。僕は、言葉をつづけました。

 

「どうしたよ?」

 

話すのをためらっている様子です。ポツリと喋りはじめました。

 

ASKA・・。」

「何?」

「昨夜、寝てるときにね・・」

 

瞬時に、分かりました。何が起こったのかを。僕は、そのスタッフが喋る前に言ったのです。

 

「坊主頭の男だろ!?」

 

顔色が変わります。

 

「何で分かったの!?」

「博多弁だったろ?」

「嘘でしょ?止めて!」

「『こうして、殺されたったい!』って、言ってきたろ?」

 

口に手を当てたまま、表情が固まっています。

 

「首を絞められたろ?」

 

唖然としています。

 

「何で!?」

「実は、その男。前の日に、オレのところに来たんだよ。」

 

そのホテルは、今も綺麗なままで中洲の景色に溶け込んでいます。

信じるか、信じないかは、あなた次第です。

ASKA

 

PS.

今日は、今から家を出ます。

戻りは、決めていません。

それでは、行ってきます。

さぁ、みなさん。おやすもう。

明日の記事は、お盆に合わせた内容になっていました。

書き終わってから、お盆だと気づきました。

夏です。

こんな、できごとを話すのも悪くないでしょう。

一度きりにします。

本当にあった話ですから・・。

ASKA