「夏休みの計画」

彼女は、ベネズエラに住む84歳のおばあちゃん。
名前は「水那珂(みずなが)イセキ」さん。

彼女は中学校を卒業後、看護婦さんをされていました。
当時、終戦直後。

まだまだ、日本は裕福ではなく、病院と言ってもそれほど薬も揃っているわけでもありません。
不衛生な環境の中、破傷風などによる患者さんを何人も見送ったそうです。

そんな時、お母様が原因不明のご病気をされたのです。
お父様は、戦争で亡くなられました。

6人兄弟の長女であったイセキさんは、まだ、幼い弟たちがおり、お母様の病院費用、
そして、家族を食べさせていくために、昼は看護婦、
夜はアメリカ軍の駐在兵が集まる飲み屋で働き続けました。

自分の父の命を奪った、言わば仇(かたき)相手に、笑顔で接しなくてはならない。
しかし、お給金とは別に、チップを渡してくれるアメリカ駐在兵を相手にすることは、
家族を養うため、そして生きるためには、どうしても必要なことだったのです。

毎日の接客業で、いつのまにか片言の英語を喋られるようになったイセキさんの前に、
ある日ベネズエラ国籍を持つ、一人のアメリカ軍医が現れました。

彼にお母様の病気を伝えると、

「日本の病院では発見出来ない病気もある。私はしがない軍医だが、私にお母様を診せてもらえないか?」

当時は、一般の日本人がアメリカ駐在部隊内に入ることは許可されていませんでした。
すでにお母様の容態は悪化しており、病院では「手の施しようがない」とのことで、お母様は、自宅に戻り、
死を前に、残された家族との時間を過ごしていました。

彼がイセキさんの自宅を訪ねた夜に、お母様が亡くなられたのです。

彼は、お母様を囲んで泣き続ける彼女の兄弟たちと一緒になって、涙を流してくたのです。

そして、彼がつぶやいた一言が、

「ごめんなさい」

でした。

イセキさんには、その「ごめんなさい」の意味が深く受け取れたのです。

 

つづきは、

 

www.fellows.tokyo

 

ASKA