やけにリアルな夢

代々木体育館でのライブでした。

自分の楽屋に入った後、すぐにメンバーの部屋に行きました。
いつものメンバーでしたが、みんな挨拶もそこそこに、

黙々と譜面に向かって練習しているのです。

「おいおい。みんな、いつものとおりでいいじゃん。どうした?」

メンバーの一人が、

「だって今日から、全部新曲に入れ替えですよ」
「あっ!? そうだ!!今日から全曲新曲だった!!」
「リハーサルもやってませんから、ぶっつけ本番は辛いっすよ」

ありえないシチュエーションでしたが、そこは夢。

楽屋の壁に、その日歌う楽曲が1曲目から、23曲貼ってあったのですが、
1曲たりとも、知らない曲なのです。
メロディさえも知らない・・・。

もう、本番まで、後4時間です。

今から、メロディを覚えたとしても、歌えて2曲でしょう。

マネージャーと緊急打ち合わせをいたしました。

「どういう経緯で、全曲入れ替えになった?」
ASKAさんが言い出したんですよ」
「そ、そうだった」

嘘です。
そんなこと、言った覚えはないのですが、メンバーもスタッフもそう言うからには、

僕が言ったのでしょう。

そこに照明チームのチーフが部屋にきました。

「やっと、終わりました。何とか間に合いました」

とにかく大変な作業だったのでしょう。

「お疲れ。何時間かかった?」

労うための質問でした。

「丸二日、寝てません。でも、間に合って良かったです。

 もう、曲目の入れ替えは聞きませんよ。」

こ、これはマズい・・・。

知らない曲ばかり・・・。
しかし、自分が作った曲。

でも、知らない・・・。

「客入れ、始まりました!!」

また、スタッフが飛び込んできました。

久しぶりのライブです。
お客さんは、期待してくれてるでしょう。

裏切れません。

しかし、知らない・・・。

ん?久しぶり?
なのに、新曲に入れ替え?

そんな矛盾も、夢の中では矛盾ではありませんでした。

「本番、行きまーす!!」

また、スタッフが・・・。

メンバーは口々に言ってます。

「やっと、覚えたよ」
「オレも。何とか、間に合った」
「オレは、まだ、怪しいところがあるけど、何とか、オレもできる思う」

そ、そんな・・・ばなな・・・。

大勢のスタッフの中、出来ないのはフロントマンの自分だけ・・・。

幕の前に立ちました。

この幕の向こうでは、期待感いっぱいのオーディエンスがいます。

しかし、しかしですよ。

自分は1曲たりとも、知らないのです。

幕が開きました。

知らないイントロが流れています。

と、とりあえず堂々と手を振らなきゃ。

と、手を振ってるうちに、もう歌に入ったようです。
だって、歌えないじゃん。

し、知らないんだから・・・。

「恐怖旅館」の、マー坊じゃないですが、
気が遠のいて、目が覚めました・・・。

よかったぁ・・・。
本当に良かった・・・。
めちゃくちゃ、良かった・・・。

頼むよ、自分。
福岡は快晴です。

本日は、ASKAバンドのメンバーのお婆様が、お亡くなりになられましたので、
お線香を上げに行って来ます。

今、メンバーでなくとも、
ASKAバンドはASKAバンドです。

永久にメンバーです。
仲間です。


ASKA

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「恐怖旅館」 エピソード 1

この物語は、私の実体験です。
登場人物は、すべて仮名にさせてください。

その日、私たち一行は、沖縄の南「はいむるぶし島」から、石垣島へ船で渡り、
沖縄の中心地、那覇へ小型飛行機で向かい、そこから東京へと戻るはずでした。

しかし、石垣島の空港へ着いた私たちを待っていたのは、台風だったのです。

「なんや? 飛ぶんかいなぁ・・・?」

まるで私を、問い詰めるかのように話かけて来たのは、
関西をネジロとしている「円広志(仮名)」

通称、

「とんでマワ」

でした。

「やめんかい。オマエが言うたら、マジ飛ばんようになるやろ!こういうときは祈りなさいよ」

私は、その場を和ませるように、そう言いました。

「空、真っ黒じゃない? 何だか、怖い・・・。何かが起こりそう・・・」

小さな空港のロビーに置かれていた長椅子の端で、独り言のようにつぶやいたのは、
このパーティに参加した一人の女性「石川優子(仮名)」でした

そして、もうひとりは鹿児島出身、陸上自衛隊出身の「野元英俊(仮名)」
そのころ野元は、音楽団体「KING COLEA(キングクリー)」に所属しており、
その団体のベースとなる存在でした。

「優子、オマエ、なん怖がっとんか!おいが、オマエを守っちゃるけん、心配すんな」
「そうね。自衛隊出身の、のもっちゃんが居ると、安心かも・・・。」
「おう!おいが、身体張って守っちゃる!!なんか、あったら、おいのところに飛び込んでこい。」

すかさず、円広志(仮名)が、言いました。

「それ、ギャグぶって、ホンマは、抱きしめようとしとるんちゃうの?」
「わはは!円広志(仮名)、おいのこと、野元英俊(仮名)のこと見抜いとんなぁ!」

そんな会話で、一瞬ロビー内の空気は明るくなりましたが、
その明るさを、まるで奪い取りに来るような天候になりました。

その時でした。ロビー内にアナウンスが流れたのです。

「○○便、那覇行きは、本日台風のため欠航となります。お客様へは、大変ご迷惑おかけします。」

私以外のメンバーは、それさえも「旅の想い出」などと、はしゃいでいましたが、
私は、直ぐに不安を持ってしまったのです。

ホテルです。

私たちが、乗ろうとした便からが欠航となりました。
観光名所の石垣島です。
この時期、観光客で溢れかえっていますので、このメンバーが全員宿泊できるところなどないでしょう。

まだ、携帯電話などないころです。
私は、こう伝えました。

「とりあえず、タクシーで市内まで行こうや。通りに出りゃ、公衆電話があるんやないか?
 電話を見つけ次第、ホテルば探そうや」

タクシー乗り場には、丁度、2台停まっていました。

5人でしたので、2人と3人に分かれて乗りました。
これと言って行き先のない私たちは、とりあえず、2台並んで走ろうと。

私は、石川優子(仮名)と、同乗することになりました。

「助かった・・・」

とは、こういう時に使う言葉でしょう。
車に乗った途端に、嵐になったのです。
ワイパーが激しく動くのですが、それでも前方が見えません。

1時間ほどして、石川優子(仮名)が、気がついたのです。
3人が乗った車とは、はぐれてしまっていました。

「ねぇ・・・。この運転手、変じゃない?」
「なんで?」
「ここ観光地よ。愛想が悪すぎない?何か、怖い・・・」

そう言えば、この運転手とは、乗ってから一言も会話をしていなかったのです。

「運転手さん」
「・・・」

振り向きもしません。

「ねぇ、運転手さん!!」
「・・・」

ピクリとも反応がありません・・・。

「変よ!!この運転手!!絶対、変・・。怖い!!」

私は、自衛隊上がりの野元ではありませんが、隣で震えだした石川優子(本名)(仮名)の恐怖を取り除いてあげなくてはと、思ったのです。

私は、無言の運転手の肩を後部座席から掴みました。

「おい!!(ぐいっ)」

運転手は、急ブレーキを踏みました。

「なんで、返事ばせんとか!!」

振り向いた運転手は、その両手を耳元に振り上げ、私に掴みかかってくるような仕草をしました。
しかし、その手は運転手自身の耳を掴む仕草に変わりました。

「なんですか?」

耳からイヤフォンを外したのです。

ウォークマン聴いてました」
「は、外して、運転せんかい!!」
「あ、はい・・・」
「市内まで、何分かかっとるんかい!!」
「この台風さ。早く走ったら、風に飛ばされるさ。命、第一よ」

確かに、そうでした。
強風の中を速く走ると、車は吹っ飛ばされます。

先ほども言いましたように、当時は携帯電話がありません。
「並走する」ことで、目的地にたどり着こうとしていたのですが、
もう、3人とは離ればなれになってしまいました。



つづく・・・



ASKA(2018/4/28 0:26)

 

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Fellows会員ぜひ6月までに。でなければ、次は9月までに・・・

何を意味しているのか、まだ、お答えすることはできませんが、
これは、ぜひ、お伝えしておかなくては・・・。

本日は、珍しくワリと時間があります。

お客さんもないようです。

コンビニにでも行って、インド人に

「ありがとうございましたぁ!!」

を、教えて来ようかな。
すっかり友達です(笑)

どこのコンビニに行っても、インド人を初め、中国人、フィリピン人・・・様々。
本当に外国人の方が多いですね。

「ありがとうございました!!おまえ!!」

彼、まだ働いてるかなぁ・・・。

国際社会において、この国に外国人が増えることは喜ばしいことです。
しかし、冷たい言い方ですが、難民だけは受け入れてはならない。

僕は、よくこの話を周りにしています。

一見、矛盾してるように感じますし、「愛の精神」から逸脱してるように見えます。
しかし、この国を守るためには、

「難民は受け入れない」

国は、これを貫いて欲しいと思っています。
愛する日本が貧困国になってしまう。

ん?

コンビニの話から日本の話になっていましました。

さて、今日は、自分のお時間を頂いています。

会報用の、

「隣のおじいちゃん 完」
散文詩
「作曲」

でも、してみようかな。

終わったら、コンビニに行って来ます←話、戻った!

先日、インド人の店員が3円おごってくれたのです。
あれ、彼のお給料から3円引かれてるはずなんです。

気持ちが嬉しいじゃないですか。

10円で苦労、そして涙目になった僕にとっては、
そのインド人を背中に乗せて、

「鯛やヒラメの舞い踊り」

を見せてあげるくらい感謝してもいい出来事です。

玉手箱は、ありませんが、、
amazonの空箱ならあります。

それに3円入れて、渡します。

インド人が、その箱を開けたときに、煙が出るようにしておいて、
モクモクの中で、

















逃げます・・・。

インド人もビックリ!!!



モニタリング、スタートっ!!!!



ASKA

 

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言語

本日、2泊3日で北海道千歳から帰って参りました。

昨日は、札幌、高校時代の恩師も交えて、剣道部の集まりでした。
毎度毎度、同じ話で盛り上がります。

僕たちの学年は、その高校の剣道部の歴史からも特別でした。
結束力が強く、

「練習がどんなに苦しくても、必ず、3年間続けよう」

これが、僕たちの合言葉でした。
特に、1年生の時は苦しかったですね。

真冬は、マイナス10度近くになる体育館で、裸足ですから・・・。

足の裏の感覚がなくなり、床に足が触れているのがわからないのです。
1時間ほどして、やっと、踏み込んだ時の足の感触がわかってくるのです。
ですので、捻挫には、特に気をつけて練習していました。

今では、体育館ではなく「剣道場」もでき、暖房も完備されています。
それだけに、あの時、練習を乗り越えた僕たちの結束力は固く、今でも、一声かければ全員が集まります。

千歳からは、電車で行ってきましたよ。

電車、便利。

これまで、空港から札幌までタクシーで行ってましたが、
高速道路を使っても、約1時間かかりますからね。

電車だと、快速で20分。
帰りは、普通電車で40分でした。

そして、今日は、千歳の友人たちと、朝から「支笏湖」に行ってきました。

北海道と言えば、先住人に「アイヌ人」がいます。
現在、純血の「アイヌ人」は2万人ほどだそうです。

北海道は「アイヌ語」を漢字で当て字にした地名が多いですね。

「札幌」も、そうですよ。
「干上がった大きな川」を「アイヌ語」で「サッ・ポロ・ペツ」と、呼んだことから「札幌」となりました。

以前、このブログで、

沖縄の「琉球民族」と「アイヌ人」のDNAは、同じであることを、お話しました。
琉球で民族同士の戦いが行われ、敗れた民族が、人の居ない地を求めて北に、北に上がったのですね。
負けて北に上がったことから「敗北」という言葉が生まれたのではないかという俗説があります。

全世界の言葉には「敗北」と、訳す単語がないからです。

言葉というのは、本当に不思議です。

人類に言葉ができた頃、全人口は30万人に満たなかったと言われています。
その30万人は、同じ言語を喋っていたようなのです。

つまり、人類は同じ言葉で会話をしていたということです。

言葉ができたこと自体謎ですし、その同じ言葉を喋っていた人類が、いくら全世界に飛び散ったとしても、
全く違う言葉を喋るようになるでしょうか?

現在、小さな民族を含めると、この地球上には約7000言語があります。

なぜ、言葉を変える必要があったのでしょうか?

人類の発祥はアフリカだと言われています。
では、アフリカで言葉ができたとしましょう。

しかし、人類が増えつづける過程で、全く違う言葉になるのが変なのです。

日本にも「方言」があります。

いわゆる「訛り」が強いところでは、日本人同士でも理解ができないこともあります。
それは、言葉に、その土地の「癖」ができたからです。

それは、わかるんだ。

でも、約7000言語の、その言葉の文法まで、変わるでしょうか?

特に、日本語は特殊ですよね。
日本語の文法と、ほぼ同じなのは韓国語ぐらいですよね。

例えば、アフリカを出発点とした言葉が、世界一周して全く通じない言葉に変わるのは変だと思いません?
文法が変わってるのですよ。

先日、お話ししました「インカ」の初代王様が日本人であったという説。
縄文時代の日本人であったなどという、具体的な言い伝えになっています。

ひとつの言葉が、なぜ7000語もの言葉に変わったのでしょう?

本当に歴史はわからない。

「〜と、いう説」

を、僕たちは信じています。

今日、アイヌ人の経営するお店を見ながら、そんなことを考えていました。

さて、本日のミックダウン、終わりましたよ。

やり直しと言っても、前のデータは残っていますので、そのデータの「ある部分」を、
何箇所か、調整し直しました。

よし!
これで完成!!!

イントロの、

「ボケ、ツッコミ」

イケてると思います。

ぐらいな感じで聴いてください・・・。
映画の宣伝みたいには、なりたくない・・・。

いいですか?
いいですね?

僕から生まれた新たな楽曲。
そんな気持ちで聴いてください。

スッゲェ良い「お経」ですから・・・。

以上、日曜日ブログなお話も盛り込んでみました。


ASKA

 

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約40年前の一目惚れ

初めての海外旅行は「ハワイ」でした。

以前、ここで1980年と書いてしまったんじゃないかな?
「万里の河」をリリース後でしたので、1981年の1月のことでした。

大学の後輩と、ふたりで行ったんですよ。
会社にそれを伝えましたところ、

「マネージャーも同行しないんだし、パックツアーで行きなよ」

と。

なにせ、旅行などしたことはありませんでしたし「パックツアー」なるものも、
よく理解しないまま、行きました。

団体旅行なのですね。
成田空港集合の指定時間は、フライトの5時間前でした・・・。

国内なら、30分前で十分ですが、さすが海外ともなると、そうなんだなと。
遅れないように行ったわけです。

しかし・・・。
待ちました・・・。
搭乗まで・・・。
4時間以上・・・。

ツアー客の中には、必ず遅れてきたり、成田に着いているのに、待ち合わせ場所がわからず、
成田空港内での集合場所を、延々と探し回ったりする方対策で、5時間前となっていたのでした。

今では、携帯電話がありますので、そのような時間設定ではないでしょう。

初めての海外旅行。
ハワイ。

本当に別天地でしたね。
ハワイの1月は雨期ですので、常夏の様相ではありませんでしたが、
それでも良かった。

仕事柄、たくさんの国にいかせてもらいましたが、今でも、

「一番行きたいところは、どこ?」

と、聞かれたら、迷わず「ハワイ」と、答えます。
そのくらい好きなところ、いや「国」と言ってもいいや。

ま、学生の海外旅行。
珍道中であったことは間違いありません。

ツアーでは、団体客に顔がバレてしまいましたので、
向こうに着いてからは、帰りの日まで、自由行動をさせてもらったのです。

ハワイは、アメリカ人からも「夢の島」と言われています。
本当に、そう感じました。

その中でも、一番印象に残っているのが、ハワイ大学キャンパス内のストアでした。
ハワイでの買い物のほとんどは、そのストアでした。

一瞬で、一目惚れしたものがあったのです。
6色のマグカップでした。

初めて見るガラスというか、材質でした。
6個、全色買ったんですよね。

日本に帰ってきてから、僕の家に訪れるお客さんに、そのマグカップを出すと、
みんな欲しがるのです。

そのくらい綺麗でした。

「TUG of C&A」の会報では、数回、そのエピソードを交え、紹介しています。
しかし、もう、あれから40年近く経ちましたからね。

いくら丈夫とは言え、そそっかしい僕ですので、一つずつ割れて行きました。
でも、一つだけ残ってるんです。



6色のうち、黄色だけが残りました。
40年前は、もっと鮮やかでした。

今回、グッズでマグカップを作るにあたり、僕は、どうしてもこのマグカップを再現したかったのです。
調べましたら、やはり1981年当時、アメリカで大流行したマグカップでした。

でも、もうこれを製造していた会社はなくなっていたのです。
なぜ、なくなったのか?

売れても売れても、利益が上がらなかったのです。

「ミルクガラス加工」

という、特殊製造方法でできたマグカップでした。
マグカップの内側が、ミルク色でしょう?

爆発的に売れたものの、採算が合わず、とうとう製造をやめてしまいました。

しかし、やはり大ヒット商品です。
この度、やっとそれを受け継いだ会社を特定できたのですが、あまりにも高額すぎる。

その上、電子レンジでは使えないということがわかりました。
僕の、81年のマグカップは平気で使えるんです。

しかし、インテリア部長としては、
あの時の6色で受けたインパクトから引き下がるわけにはいかないのです。

今週、オープンとなります「Fellowsグッズ」で、それに近いマグカップを作りました。
色は、4色です。

6色を揃えたかったのですが、もう2色は、イメージには届きませんでした。
なので、すっぱりと諦め、あれに近しい4色だけにしました。

「Fellowsマグカップ」
「DADAマグカップ」

ポラロイド加工してありますので、キラキラ感がやや薄れていますが、
本物は、もっと光沢があります。

ちょうど、僕のところに届いたばかりで、開封した6個はこんな感じです。
あと1色は、まだ箱の中にあります。





と、書いたところで、そう言えば、会社で全色を撮影したのが出てきました。
こちらの方が、そのままの光沢感をお伝えしやすいですね。



インテリア部長、満足です。


ASKA

 

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未来の人よ

次の曲の仮タイトル

「未来の人よ」

と、なっています。

映画「ブレードランナー2049」に、こんなシーンがあったんです。

荒廃された未来は、一面砂漠でして、その真ん中に突如ビルが過密化した都市となって現れるのです。

印象的なシーンがありました。

一人の男が、その砂漠で野生の花に出会うんです。
その男は、それを大事そうに土から掘って、ビニール袋に入れて持って帰るんですよね。

僕は、未来の人に、こう伝えたくなったな。


                 未来の人よ ずっと僕たちは
                 今日まで緑に 囲まれてるよ 


今のところ、そう書いています。

このままかもしれない。
書き換えるかもしれない。
全部なくなるかもしれない。

僕は、その映画を観ていて、あるところを思い出しました。

「ドバイ」

 です。

「人は住めない」と、言われていた沙漠に深い深い鉄鎚を打って建てられた都市「ドバイ」。
今は砂漠であっても、その昔はちゃんと「土」だったわけですので。

今、地球は、ものすごい勢いで砂漠化しています。

モンゴルの「ゴビ砂漠」・・・。
地球上で、4番目に大きな砂漠です。

日本に一番近い砂漠です。

日本には、毎年、その「ゴビ砂漠」から「黄砂」が飛んで来ます。

僕らが子供の頃にも、すでに大きかったのですが、いまでは、難なく日本をすっぽり包み込む大きさとなり、
それは中国本土を侵食し始めています。

ふと、思ったんですよね。

僕は、ドバイに行ったとき、
砂漠の中で完全近代化された都市の華やかな部分ばかりを感じて帰って参りました。

「住んでみたい」

と、さえ思いました。

完全に観光地です。

ドバイでは、

「水は石油より高価」

だと、言われています。

なぜ、そんな場所に世界中からお金が集まったのでしょうか?
なぜ、「世界政府」の会議が「ドバイ」で、行われたのでしょうか?

世界一高いタワー
世界一大きな水族館
世界一大きな国際空港
世界一大きな人工島
世界一大きなショッピングモール
世界一大きな屋内スキー場
世界一長い無人運転鉄道
世界一大きな観覧車
世界一大きな映像装置
世界一長い救急車
世界一大きな発電&淡水化装置
世界一大きなテーマパーク

そして、「ドバイ・ファウンテン」と呼ばれる、世界一の噴水ショー。
完全にプログラムされた噴水ショーが、1日2回行われます。

なるほどね・・・。

僕は「ブレードランナー2049」を観ていて、やっと「ドバイ」の意味がわかりました。

日中の最高気温「50度」
湿度「100%」

そんな、住みづらいところなのに、2年先に建てられるマンションでさえ完売しています。
ドバイの中心地から、どんどん離れたところに建設されていますので、新しいマンションは、常にどれも、
「2500万円」くらいです。

その後、そこも、中心地近くと言われ出しますので、すぐに何倍もの価格になるでしょうね。

「ドバイ」は、これから人類が迎える様々なこと・・・。
つまり、この地球で生き抜くための実験都市ではないでしょうか?

なら、一つだけ、間違ってることがある・・・。

これに気がつかなくては、意味がない・・・。

僕には、それを乗り越える方法がありますよ。


「未来の人よ」

あなたたちは、僕らの愛の結晶だよ。
それに気づいてくれるだろうか?


ASKA

 

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安定〜衰退

以前、僕は、生きる過程を4つに分けてみました。

いちばん力を持つのは、

「誕生」

の、時です。

誕生には、「決心」と「勇気」と「野望」が、備わっています。
また、誕生には「清さ」がありますので、周りの温かい応援があります。

そして、

「成長」

に、入ります。

「軌道に乗る」ということです。

物事の過程に於いて、この「成長」は、未来永劫失ってはならないことです。
この時に、必ず経験するのは「嫉妬」や「邪魔」です。

しかし、成長の時期には、いちばん勢いがありますので、
そういうものさえ、振り切ることができるんですよね。

「成長」には「次から次に」が含まれています。
ここで、達成感を感じてしまうと、

「安定」

に、入ります。

「安定」は「維持」です。
「守りに入る」と、いう姿勢です。

「安定」は、外から見える景色です。
なので、「誕生」「成長」過程を知らない人たちが、安住を求めてやってきます。
「先住」は「安住」を求めてやって来た人に、物事に「安定はない」ことを、徹底的に叩き込む必要があります。

もし、自己の中に「安定」を感じたら、それを境に、

「衰退」

が、始まります。

この「衰退」というやつ。
「成長」と、同じくらい勢いがあるんですよね。

「衰退」を食い止めることができるのは「抜本的な改革」そして、その「意識」です。
しかし、それに成功した例は、歴史的にも稀有です。

運動選手の「引退」と、今述べた「衰退」は、全く次元の違うものです。

もし、「維持」という言葉を肯定的に使うなら、

「成長の維持」

でしょうね。

朝方、ある記事を目にしまして、
そんなことを、自分に言い聞かせました。

今、 僕が書いている歌詞は、

20歳そこそこで東京に出てきたときに見たものと、今の僕に見えているものがテーマになっています。
そう、僕たちの知らない昔の人たちが見たものと、今、僕たちが見ているものは、同じなんです。

違いは「景色」や「環境」だけなんです。

「時代」に、責任はありません。
ただの移ろいですから。


ASKA

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