心はアクセスをしている。
なぜ、僕が、心はその人に中にはないと思うようになったのか?
あることがキッカケでした。
大きな産婦人科専門の医院長と、食事をした時のことです。
もう、7年ほど前のできごとです。
「ASKAさん、魂はいつ頃宿ると思いますか?」
「どうでしょう?三子の魂という言葉がありますからね。2〜3歳までじゃないでしょうか?」
「先日、学会で発表があったんですよ。どうやら、胎児となった3ヶ月めくらいに、どこからともなく、その胎児に魂が飛び込んでくるという発表でした。」
なるほど。
生まれた時には、すでに性格が備わっているというのはそういうことかと。
何より、驚いたのが「魂」という言葉を、医者が学会で使っていたということです
「どこからともなく胎児に飛び込んでくる」
その時、医師は空を指さしながら「どこからともなく」と、説明をしました。
もう、いろんなことは気がついているのだなと。
ただ「科学」「医学」では、説明ができない。それだけのことなのでしょう。
「医学」「科学」は、宗教と袂(たもと)を分け合い始めている。
「医学」「科学」「宗教学」
もう、すでにこれは平行に並んでいるものだと感じました。
僕が「宗教団体」ではなく、宗教を否定しないのは、こういう背景があるからなのです。
その後、僕は、その産婦人科に足を運び「ヒトの神秘」に触れることとなりました。
人工授精を見せてもらったのです。
「ここまでやっているのですが、ダメなものはダメなのです。」
人工的に、つまり針で卵子の壁を破り、直接、精子を送り込むのですが、それでも受精しないのです。生命の神秘に触れました。
壁を破って飛び込んできた精子を、卵子が拒否した場合、卵子は、自ら命を絶ちます。
卵子が自殺するというのです。
もうすでに、卵子にも精子にも意思が備わっているということです。
そして、受精後に、新たな命として生まれ変わった「生命体」。
つまり、ただの生命体。その生命体である胎児に魂が飛び込んできて「ヒト」となる。
性格が備わる。だいたい妊娠3ヶ月の頃と言われています
どこからでしょう?
どこから飛び込んでくるのでしょう。
僕には、疑問が残りました。
肉体は、生命体と生命体の融合で、新しい生命体を生むわけですので、
どちらかに似るのは当たり前です。生命体。肉体のことですね
なので、親と子が似るのは当たり前です。ただ、魂が飛び込んでくるものなら、両親とは別のものです。子は親を選んで生まれてくる。これは僕の考えでは、もう完結している答えです。生まれるところを子は選んで来ます。ですので、親から学び取った行動をとりますので、似ているように思いがちですが、その根っことなる、本当の性格は、別のものです。
人は心を持ってない。そこにアクセスして心となるものをダウンロードしているだけだと、僕は言いました。
つまり、親のどちらかのダウンロード先の色に存在する、魂となる、色(性格、魂)の一部が送信されてくる。この世には、宇宙には、同じものは決して存在しませんので、その色一帯を構成している色のどれかが、送信されてくる。なので、似てはいるが、別のものであるとの考えを持ちました。
送信とは、魂の送信です。魂は送信先をじっと待っている。
アクセスされるのを、じっと待っている。
つまり、ひとつのアクセスに対し、無数の魂が集まる。
そして、その中のひとつの魂とアクセスに成功する。その魂は、そのアクセスを待っていた。つまり、魂は、自らアクセス向かっていたわけです。なので、親が子を選んだのではなく、子が親を選んだと言えるわけです。
もっと、言うなれば、この世に生まれたがっていたということになります。
「この世は地獄」
などという考え方をする人がいますが、魂が地獄を選ぶとは思いません。
この世は、地獄ではありません。
何かをやり遂げるために、誰かとの約束を守るために、僕たちはこの世に生まれたのだと思っています。
「心」=「魂」は、常にどこかにアクセスしている。
そのアクセス先により、考えが変わることがある。
「心」とは、身体の中にあるものではなく、アクセス先により、変化していくものだと思います。
善にも悪にも同時にアクセスをしています。
アクセス障害とは、心の障害とも言えるでしょう。
その中で、その人のアクセス先というところが、しっかりしていきます。
周りは、それを、
「と、いう人」
と、呼びます。
「頑固」と「信念」は、一見似ていますが、
別のアクセス先のようです。
このブログの、この中では、うまく説明できませんでした。
いつか、持論を前提とした本を書いてみたいな。