脳は、記録、または記憶媒体で、そこに情報を受信したり、発信し、その指示で手足が動いたりします。

 

ここからは、僕の持論なのですが、記録は脳だけで行われているものではないと思っています。細胞のひとつひとつに意思があると思っているんですね。

 

つまり、細胞にも脳があると思っているのです。

 

例えば、その集合体で、ひとつの臓器が構成されていると考えているわけです。

その集合体である、心臓、肝臓、腎臓、膵臓、肺臓、脾臓、胆嚢、胃、小腸、大腸など、すべてに、脳の役割を果たすものがあると考えています。

 

その臓器の脳が、人間の脳と呼ばれるところへ、まだ解明されていないアクセスが行われていると思うのです。

 

こいう話がありますよね。

 

お酒を飲めなった患者が、肝臓移植をすることになり、移植後、やたらと、ビールを飲みたくなってしまったと。肝機能が働くようになったので、少々、お酒が強くなったというのなら、なんとなく受け入れることはできるのですが、ビールが飲みたいという欲求が起こるでしょうか?

その後、その患者には、健康を取りもどりた後、フラッシュバックと呼ばれているようですが、突然見たこともない景色が、目の前に現れるようになります。

 

長くなりますので、割愛しますと、その見たこともない景色は、その後、臓器提供者の自宅の庭であったことが判明します。

 

これらからわかることは、記録、記憶媒体は脳だけではないということです。

 

全ての臓器に脳があり、またそれを構成している細胞にも脳があると思うのです。

 

細胞とは、ひとつの完成された生命体であり、その生命体の集まりで、ひとつの(脳を持った)臓器が形成されており、それらが集まって、ひとりの(脳を持った)人間となっている。

 

と、考えると、そのひとりの人間も、何かの細胞の一部であると考えられるわけです。

 

以前より思っていたことで、近しい周りには語ってきましたが、実は、僕は、「意識」や「心」も、ただのフォルダやアプリケーションなだけで、どこかにアクセスしているだけなのではないだろうかと考えるようになりました。

 

つまり、心自体が、その人にあるのではなく、「思い」や「行動」など、向上心によって、アクセス先が変わって行く。

 

そのアクセスされたところから与えられた、つまりダウンロードされた状態が心ではないかと思うのです。

 

なので「願いは叶う」と、いうのも、あながちポジティブ思考により生まれた言葉ではなく、本当ではないかと思うのです。

 

もちろん、全てが叶うわけではなく、限りなく近づいて行けるということです。

 

人間が生まれて、死んで行くことも、ただのプロセスだと考えると、「死」というのも、働きの中のひとつのプロセスであり「死」の次には、また別のプログラムがあると考えます。

 

人間界においての最後が「死」であり、生命体としては、ただのプロセスであると思うようになりました。

 

と、いうふうに、組み立てられているのですね。

と、いうふうに、創られているのです。

 

誰に?

 

神ではないでしょう。

 

ボケ、痴呆、認知症アルツハイマーのお話から、流れてきたお話でした。

 

ASKA